ウィリアム・ロビンソン・ブラウン ブラウン・カンパニー

ウィリアム・ロビンソン・ブラウン

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ブラウン・カンパニー

ブラウン(左)はブラウン・カンパニーの製材部門を40年以上監督した

H・ウィンスロー&カンパニー、後のバーリン・ミルズ社は1853年頃に設立され、ブラウンの父が1868年に株の一部を購入した[13]。1881年、会社は製材業からパルプ製紙行に拡大した[14]。ブラウンの父は1888年までに会社の支配権を獲得し[15]、1907年には上の二人の息子と共に全所有権を得た[13]。会社名は1917年にブラウン・カンパニーに変えた。折から第一次世界大戦の最中であり、紛争相手国ドイツを想起させる「バーリン」(ベルリン)を外した。

ブラウンは大学を卒業した1897年に会社の経営に加わった。その父は「ネズミを捕まえられない子供は欲しくない」と宣言し、ブラウンには家族の支援無しに仕事を見つけさせた。その結果、メイン州ポートランド市で会社の材木を売ることから仕事を始め、週給9ドルで働いた。その後は昇進してバーリンに戻り、2回目の昇進で製材所の夜間監督になった。この地位にあるときに、冬に蒸気排気を使って池を温め、解凍して木材を洗い、材木生産速度を上げる方法を開発した[16]。次に昼間の監督に昇進し、1900年9月8日には、11時間シフトで「ワン・ヘッド・リグ」の労働者仲間により木材を切断して221,319ボードフィート (522 m3) を製材するという世界記録を打ち立てることに成功し、その記録は85年間破られなかった[17]。この出来事のあと、「父に子供たちの一人として資格を貰った」と宣言した[18]。この記録を出した日には町に居なかった父は、その結果を調べ、実際に得意先に出荷された木材の量を質問し、「うん、それならいい」とコメントした[19]。1902年、父はブラウンを製材部門の総合マネジャーに昇進させた[18]。ブラウンは会社の役員となり[9]、1943年まで製材部門の支配人として、会社の山林を監督した[1][20]。ブラウンが会社に入ったとき、会社は40万エーカー (1,600 km2) の土地を持っていた[21]。その最盛期には会社が所有しブラウンが監督する土地は375万エーカー (15,200 km2) となり、伐採場が40か所、内陸輸送船は30隻以上あった[18]。木こりは材木の運び出しのための馬を少なくとも2,500頭持っていた[22]。会社は鉄道を所有し、貨車は800両以上あった[23]

ブラウン家は後に「進歩的で...時代の先端を行く」と表現され、木材生産について革新的アイディアや科学的な森林管理法を持っていた[23][24]。ブラウンが在職した間に、森林管理に関する近代的手法を始めた会社の1つとなり、将来の産業利用のために森林を保護する試みも始めた。ブラウンは特に移動式鋸によって生じる損傷に批判的だった[25][26]。ブラウンは当時のパルプ工場が地元で伐れる材木に依存することを理解し、この産業にとって持続可能な方法が重要であるという結論を出した[27]。アメリカ合衆国林野庁から採用した会社の森林監督官オースティン・キャリーが提唱する持続可能な森林管理法を実行した。1919年、カプサプティック湖の北岸で苗木育苗圃を作り、持続する生産技術を研究し[20]、その最盛期には国内最大の育苗圃となった[1]。森林管理におけるその革新的方法は林業の標準になった[28]。プリマス州立カレッジの研究者が「ブラウン・カンパニーを科学的研究開発の資源として国際的に傑出した存在にした」と結論付けた[29]

ブラウンはその事業に適用されるものとして進歩主義運動の影響を受けた[30]。労働者には水準以上の賃金を支払い、安全確保計画を作り、キャンプでは木こりのために医者を雇い、現代の労働者災害補償保険法成立以前に会社が負傷した労働者の治療費用をみた[1]。労働者のキャンプでは、カードゲームを禁止し、木こりたちにシャワーを使うことを求めて条件の改善を試みもしたが、それら特定の改革は「うまく受け入れられなかった」とされる[31]。ブラウン家はバーリン市にかなりの関わり方をしていた。家族の様々なメンバーが公立の幼稚園を始め、ジム、水泳プール、ボウリング場のあるクラブを建設し、病人にはスープを与え、地元の子供たちにはクリスマス・プレゼントを贈った[22]。ブラウン自身は1901年に設立したニューハンプシャー州森林保護のための協会[32]、1910年に設立した防火組織のニューハンプシャー州山林所有者協会[18][28][33]、メイン州やバーモント州における同様な防火組織[34]など、多くの公的および事業に関わる自助団体の設立に寄与した。一連の山火事見張り所を設置したのは恐らく国内でも初のことであり、1917年までに山火事保険会社の設立に貢献した[9]。1909年、ニューハンプシャー州林野庁の設立を規定する法の起草に貢献した後[18]、ニューハンプシャー州林業委員会の委員になった[35][注釈 1]。1910年から1952年までその委員長を務め[37]、州の林業手法や法の形成に少なからぬ役割を果たした[38]。ブラウンはまた、アメリカ林業協会やアメリカ林業家協会、カナダパルプ製紙業協会、林業研究委員会など業界団体の理事も務めた[28][39]。1926年にローマで開催された第1回世界林業会議ではアメリカ合衆国の代表になった[9]

第一次世界大戦中、ニューイングランド林業委員会の委員長という職にあったブラウンは、軍需産業委員会とともに10台の製材機を海外に送った。この機械はスコットランドに送られ、イギリスの木材需要に合わせられた[40]フランスでの戦争遂行のために毎月7,300万ボードフィート (173,000 m3) 以上を製材する必要があり[41]、ブラウンはそこでの製材作業を監督する大手として注文を受けたが、ブラウンはこのとき片目の視力を失いかけていたために[28]、フランスでの奉仕が出来なかった[3]

世界恐慌がブラウン・カンパニーに大きな影響を与えた。当時のバーリン市は人口約2万人であり、大半はブラウン社で働くか、その従業員の家族にサービスを提供していた[42]。ブラウン家は1920年代に事業拡大のために多額の借金をしており、その従業員に言わせれば、「無頓着に過剰な楽観主義になっていた」とされている。一家の縁故主義も欠点になっていた[23]。この会社の製品に対する需要が減り、運転資金を得るために短期ローンを借りることを強いられ[20]、1931年までに国際的な金融情勢が、会社の債券の価値を大きく下げることになった[43][44]。その結果、1931年から1932年の冬に、ブラウン・カンパニーは製材業のために必要な資金を取得できなくなった。毎冬材木の切り出しのために通常4,000人ないし5,000人の木こりを雇用する必要があった[43]。ブラウン家のメンバーは会社の支払い能力を保つために個人資産を売却した。ブラウンはそのアラブ種馬の群れ全体を手放した[44]。1933年、バーリン市およびニューハンプシャー州と協業的資金計画を交渉し、州議会に批准されたうえで、製材作業の資金を手当てし、バーリン住民の雇用を維持した[1][22]。それでも会社は1934年に管財人の監督下に入り[43]、1935年に破産を宣告された[20]。裁判所が指名した経営者が入ったが、ブラウンは製材部門の長であり続けた[44]。ブラウントのバーリン市との合意は1941年まで継続したが、この年、会社は再度破産を宣告された。最終的にブラウン家は会社の取締役会で重要な役割を持たなくなり、外部投資家に売却された[43][45]。ブラウンは公式には1943年に会社を退職したが[8]、兄のオートン・ビショップは1960年まで取締役会に留まっていた[20]


  1. ^ ニューハンプシャー州林野土地庁、ニューハンプシャー州資源経済開発省の森林管理計画[36]
  2. ^ This was $13,000.00 in 1918 dollars.[64]This amount is equivalent to about £138,000 as of 2011,[64] comparing the historic opportunity cost of £2727 in 1918 with 2011, using the GDP deflator.
  3. ^ ブラウンは1916年にアン・ブラントと文通を始めており、アラブ種馬に関する彼女の愛と知識を尊敬し、「真の科学者」だと好意的に表現していた。1921年、ブラウンはウェントワースとの文通も始め、数年間で35通を超える書簡を交わした。しかし、ブラウンはアン・ブラントほどウェントワースを好まず、彼女の財産に直接評価を与えさせるのが難しいことが分かった。ウェントワースがその馬を過剰に良く評価し、他のものは厳しく批判することもあって、ブラウンは憤懣を覚えていた。彼女ができるだけ多くの馬を売りつけたいのだと考えた。彼女のつけた価格はあまりに高かった。[66]
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