ウィリアム・ロビンソン・ブラウン アラブ種馬のブリーダー

ウィリアム・ロビンソン・ブラウン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/04 06:55 UTC 版)

アラブ種馬のブリーダー

アラブ種馬に跨ったブラウン、1919年[46]

ブラウンは1910年に最初のアラブ種馬を購入し、1912年にバーリン近くにメインズボロ・スタッドを設立した[47]。この農園は地域で初めにあった開拓地メインズボロに因んだ命名であり、グレート・ノース・リージョンとも呼ばれるホワイト山地に位置していた。主たる種馬の厩舎は最初の場所からは移されたが、バーリン市とコーアス郡歴史協会が保存して修復しており[48][49]、ブラウン・カンパニーの役馬の厩舎も改修している[50]。2012年9月15日、協会はメインズボロ・スタッド開設から100周年を祝った[51]

メインズボロはその最盛期には、国内最大のアラブ種馬農場だった[52]。1919年、ブラウンは88頭の馬を所有しており、ニューハンプシャー州のこの農園を主とし、他にアイオワ州デコラやワイオミング州コーディにも所有していた[53]。194頭の馬のブリーダーとして認証されており、アラブ種では最も知識があるブリーダーであり権威であると知られるようになった[54]。1918年から1939年までアメリカ・アラブ種馬クラブの会長を務めた[55]。この団体は現在アラブ種馬協会の一部になっている。

血統の保存

ブラウンがメインズボロを作ったとき、当時のアメリカ合衆国にいる純血アラブ種馬ほとんど全ての血統を研究した。アラブ種馬は実際には馬の中で異なる小分類にあると考えた[55][56]。これは昔は普及した理論だが、当時は否定されていた[57]。アラブ種は砂漠で開発されたとしても、ニューイングランドの厳しい冬に適応できることが分かった[46]

ブラウンはメインズボロを始めたときに、イングランドのクラベット・アラビアン・スタッドが養育したアラブ種馬であるアブザイドを購入していた長兄のハーバートから種牡馬を貰っていた。アブザイドはその有名な種馬メソードの最良の息子と考えられた[58]。1912年、ハーバートがホーマー・ダベンポートの死後にダベンポートの農場から種馬を取得していた。メインズボロ・スタッドはダベンポートの農園から10頭の牝馬も取得していた[59]。ブラウンはアブザイドをアラブ種馬の理想的な代表と考え、それが死んだときには、アメリカ自然史博物館にその骨格を寄付したくらいだった[55]。その他にブラウンが購入した馬は、マサチューセッツ州のスペンサー・ボーデンのインターラチェン農園で飼っていた馬の大半があった。ボーデンはその馬群を処分すると決めていた。これらの馬の中には、アメリカ合衆国でも最初期に純血アラブ種馬を飼育した者であるランドルフ・ハンティントンの馬の子孫が含まれていた[60][61]。ブラウンは、馬術、アラブ文化、アラブ種馬に関するボーデンの膨大な図書収集品も取得した。その中には8世紀のフルシイヤの原稿も入っていた[55]。このような出発をした後で、海外の血統に目を向け、最終的に33頭の馬を輸入した[51]

国際購入

アブザイド、メインズボロの種牡馬

アメリカの多くのブリーダーがクラベット・アラビアン・スタッドから馬を購入していた。ブラウンがメインズボロを設立した当時は、アン・ブラントとウィルフリッド・スコーウェン・ブラントが所有していた[58]。1900年代初期にはブラント家に混乱があったこともあってアメリカのブリーダーはクラベットの最良のアラブ種馬を購入できた。1906年、ブラント夫妻が別居し、1917年にはブラント夫人が死去した後、ブラントの娘ジュディス・ウェントワースが、クラベットの土地や馬についてウィルフリッドとの敵意のある広範な闘争に巻き込まれた[62]。ウィルフリッドは債権者を宥める必要があり、1918年にクラベットの馬の多くを国際的なバイヤーに低価格で売却した。ブラウンは1918年にクラベットの馬18頭を購入し、その理由は分からないが、メインズボロに到着したのは17頭だけだった。ブラウンはその全体で2,727ポンドを払った[63][注釈 2]。このとき購入した中で最も重要なのは、良く知られた種牡馬であるバークであり、アメリカで仔馬4頭に種付けしただけで死んだ。これはウィルフリッドの行動故にクラベットに最良の種牡馬を買い戻そうとしていたジュディス・ウェントワースにとって大いに困惑させられることとなった[65]。ブラウンは1923年にもクラベット養育の馬2頭を購入したが、直接ウェントワースからではなかった[53][注釈 3]

ブラウンがメインズボロで飼育した馬の中で最も著名なクラベット飼育のものは、1909年にアメリカに来たアストラルドだった。この馬はウィルフリッド・ブラントがマサチューセッツ州のバイヤーに売ったものだったが、ニューイングランドで僅か2頭の仔馬を生ませた後に、補充馬に売られ、西に運ばれ、オレゴン州で侘しく暮らし、そこでは純血の子孫を生み出していなかった。アストラルドは最終的に1923年にブラウンが取得し、列車でこの年寄り馬をアイダホ州からニューハンプシャー州まで運ばせた。アストラルドはメインズボロで仔馬を1頭生ませただけだったが、アメリカで飼育された息子達の中にはグラストラがいた[67]

ブラウンは1921年にアメリカ陸軍交代馬サービスと共にヨーロッパに旅し、オーストリア、フランス、ハンガリーで多くの牧場を訪れた。帰途にはクラベットでウェントワースと会ったが、馬は買わなかった[66]。1921年と1922年にフランスからアラブ種牝馬数頭を輸入した[65]。これはフランスが優秀な騎兵用馬を生産しているという評判があったことも影響していた[68]

1929年、ブラウンはアラブ種の専門家カール・ラスワンと共に砂漠産馬を求めてエジプトシリアに旅した。ブラウンの妻に拠れば、この二人は仲がうまくゆかず、その旅の間に購入した5頭の馬も、アメリカに渡ることはなかった。この旅の後、ブラウンは『砂漠の馬』を著しており、現在でもアラブ種馬について書かれた最良の作品だと見なされている[66]

1932年、その牧場のマネジャーであるジャック・ハンフリーをエジプトに送り、モハメド・アリ王子から種牡馬2頭と牝馬4頭を購入させた[69]。この王子は馬の飼育者かつ学者として知られ、アラブ種馬を育成するための2巻の論文を出版していた。このとき購入した牝馬2頭はマールーサの娘であり、ブラウンは「今まで見た中で最も美しい牝馬」と表現していた[70]。種牡馬は競馬で実績があったナスアとザリフェだった[71]

耐久試験と補充馬

ブラウンの馬であるクラベットが1921年のアメリカ公式騎兵馬耐久騎乗で優勝した。ブラウンの馬は5年間で3度優勝し、そうすることでトロフィーを持ち帰った

ブラウンは交代馬エージェントであり[67]、アメリカ陸軍交代馬委員会に務め[28]、アメリカ騎兵隊に使われる馬の性能改良に関する興味がアラブ種馬を育成する動機になった可能性がある[66]。スペンサー・ボーデンは交代馬種としてのアラブ種馬に関する興味をブラウント共有していた[47]。ブラウンはアメリカ陸軍交代馬サービスに対して、アラブ種馬の優れた耐久性と持久力について証明しようと考え、耐久レースへのアラブ種馬の参加を積極的に奨励した[72][73]。持ち馬の大半に騎乗の訓練をさせた。多くは耐久レースで使われ、少なくとも1頭はポロ・ポニーだった[74]

1918年、ブラウンは試験騎乗を行わせ、持ち馬のうち2頭にバーリンからメイン州ベセルまで162マイル (261 km) を移送させた。この馬は休憩を含めて31時間で走破し、悪い気象条件とぬかるみ道を、騎手と装備合わせて200ポンド (91 kg) を運んだ。その馬は、1頭が純血7歳の牝馬であるケイラであり、馬体重は900ポンド (410 kg) と、もう1頭はクレイ繋駕速歩レース馬の系統を引くスタンダードブレッド牝馬であるカールドによる半分アラブ種のラステムベイだった。ラステムベイの方がケイラより背高と馬重が大きかった。どちらも騎乗が終わった時点で獣医の検査を受け、続けて騎乗しても健全で適応できると判断され、24時間後にも特に異常が見られなかった。3頭目の馬であるハーバート・ブラウンのクラベットは、試験を監督した軍人が騎乗し、17時間で95マイル (153 km) を移動した。これらの試験結果は「ニューヨーク・タイムズ」で報告された[75]

1918年の試験に続いて、ブラウンは1919年に最初のアメリカ合衆国公式騎兵馬耐久騎乗の組織化に貢献し、その持ち馬の牝馬ラムラが200ポンド (91 kg) を運んで優勝した[76]。このレースは5日間で306マイル (492 km) を移動するものだった[8]。アメリカ合衆国交代馬サービスは1920年に馬が運ぶ重量を245ポンド (111 kg) に上げることを求め、5日間で1日平均約60マイル (97 km) 進むことを求めた。この年、アラブ種は1位にはならなかったが、どの種よりも高い平均点を獲得した[76]。ラステムベイが2位に入った[77]。1921年、携行重量が225ポンド (102 kg) となり[76]、この年も5日間で300マイル (480 km) を移動するレースとなり、ブラウンのせん馬であるクラベットが優勝し、ラステムベイは3位に入った[77]。この年、ジョッキー・クラブがアメリカ陸軍に5万ドルを寄付して最良のサラブレッド種馬を買わせたが、アラブ種馬に勝てなかった。ブラウンは1923年にもゴウヤというアングロ・アラブ種で勝利し、アメリカ合衆国交代馬サービスカップを持ち帰った[76]

ブラウンは交代馬サービスが所有するアラブ種牡馬を種馬として使い[67]、長い間には、自身の種牡馬から32頭の仔馬も生ませていた。種の改良のために交配も提唱した。しかし、大きさを増すために純血種アラブ種馬を養育することは、その性能とタイプを犠牲にするという結論になった[55]

放出

ブラウンは1933年に[78]ブラウン・カンパニーの経営を維持する資金を上げるために持ち馬全てを売却した[79]。買い主はケロッグ牧場、ロジャー・セルビー、ウィリアム・ランドルフ・ハーストのサン・シメオン・スタッド[78]、およびJ・M・ディキンソン「将軍」のトラベラーズレスト・スタッドであり、ディキンソンはブラウンが1932年にエジプトから輸入した馬の大半を取得した[53]。ディキンソンは1939年にザリフェをコロラド州のウェイン・ヴァン・ヴリートに転売し[71]、ブラウンが飼育した最後の種馬だったアズカーはテキサス州の牧場に転売した[8]。そこでアズカーは広い牧場の中の群れ種牡馬として気ままに生活するはずだったが、ブラウンのアラブ種馬の頑健さでは見本であるこの馬は、ヘンリー・ボブソンによってアラブの馬育成世界に戻されたとされている。ディキンソンは牝馬のアジザをアリス・ペインに売却し、ペインは後にラッフルズも所有した[80]


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  3. ^ ブラウンは1916年にアン・ブラントと文通を始めており、アラブ種馬に関する彼女の愛と知識を尊敬し、「真の科学者」だと好意的に表現していた。1921年、ブラウンはウェントワースとの文通も始め、数年間で35通を超える書簡を交わした。しかし、ブラウンはアン・ブラントほどウェントワースを好まず、彼女の財産に直接評価を与えさせるのが難しいことが分かった。ウェントワースがその馬を過剰に良く評価し、他のものは厳しく批判することもあって、ブラウンは憤懣を覚えていた。彼女ができるだけ多くの馬を売りつけたいのだと考えた。彼女のつけた価格はあまりに高かった。[66]
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