ウィリアム・アイザック・トマス 後年

ウィリアム・アイザック・トマス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/19 05:20 UTC 版)

後年

スキャンダルの後、トマスはニューヨークへ移り住んだ。以降は、テニュア職には就かなかった。1923年から1928年にかけて、彼はニュースクール大学の前身であるニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ英語版という当時の進歩的な、しかし周縁的な影響力しかもっていなかった学術組織で、授業を担当した。1919年にこの学校を共同創設したひとりであったソースティン・ヴェブレンも、トマスと似た経緯で学界の表舞台から転落した経験をしており、この学校はトマスの苦境に同情的であった。トマスは、様々な慈善家や組織の支援を得て、研究を続けた。

社会学研究へのトマスの最大の貢献のひとつは、高く評価された『The Unadjusted Girl』(1923年)として提示された[13]。トマスが、有名な概念である「状況の定義 (Definition of the situation)」を導入し、展開したのはこの著作においてであった[13]。トマスのいう「状況の定義」は、何らかの意思決定に先んじて、人々が、「行動する前に、一般的にその帰結について検討、計画する」ことを意味している[13]ジョージ・ハーバート・ミードの諸理念とともに、トマスの「状況の定義」の概念は、後に起こった構造機能主義に対するシンボリック相互作用論の反乱において重要な役割を果たすこととなった。

1927年、若手世代の研究者たちの支持を集めたトマスは、体制側からの反対にもかかわらずアメリカ社会学会英語版の名誉会長に選出された。

トマスが1928年に、研究助手だったドロシー・スウェイン・トマスとの共著で出した『The Child in America』には、社会学の基本的法則のひとつとなった一文が書かれていた。それは、後に「トマスの公理」として知られるようになった、「もし、人がある状況をリアル(現実)であると捉えたなら、それは結果においてリアルである。」という一文であった。 (Thomas & Thomas, 1928, p. 572)

1935年、ハリエット・パークと離婚したトマスは、36歳年下のドロシー・スウェイン・トマスと再婚した。

1936年ハーバード大学社会学部の学部長ピティリム・ソローキンはトマスを客員教授として招聘した。トマスはこの招聘に応じ、1937年までハーバードに留まった[5]


  1. ^ a b “William Thomas, Sociologist, Dies. Former Member of University of Chicago Faculty Lectured Here and at Harvard”. New York Times. (1947年12月7日). https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9B07E6DC103CE13BBC4F53DFB467838C659EDE&legacy=true 
  2. ^ Thomas, William I.; Thomas, Dorothy: The Child in America (Alfred Knopf, 1929, 2nd ed., p. 572)
  3. ^ W. I. Thomas”. www.rootsweb.ancestry.com. 2016年10月19日閲覧。
  4. ^ Janowitz, Morris (1996). W.I. Thomas On Social Organization and Social Personality. Chicago: The University of Chicago Press. pp. XI 
  5. ^ a b Sica, Alan. 2005. "W.I. Thomas" Pp.406-410 in "Social Thought: From the Enlightenment to the Present". Boston, MA: Pearson Education, Inc.
  6. ^ a b Lemert, C. 2010. “William I. Thomas and Florian Znaniecki (1918-1920)”. Pp.251-257 in “Social Theory: The Multicultural and Classical Readings”. 4th ed. Boulder, CO: Westview Press.
  7. ^ William Isaac Thomas”. American Sociological Group. 2012年10月5日閲覧。
  8. ^ William Isaac Thomas”. American Sociological Association. 2018年6月15日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h Martin Bulmer (15 August 1986). The Chicago School of Sociology: Institutionalization, Diversity, and the Rise of Sociological Research. University of Chicago Press. pp. 59–60. ISBN 978-0-226-08005-5. https://books.google.com/books?id=o0dJJZvcE2YC&pg=PA59 
  10. ^ a b c d e f Robert M. Crunden (1984). Ministers of Reform: The Progressives' Achievement in American Civilization, 1889-1920. University of Illinois Press. p. 86. ISBN 978-0-252-01167-2. https://books.google.com/books?id=HJcKzdDy_2kC&pg=PA86 
  11. ^ a b c Mary Jo Deegan (1988). Jane Addams and the Men of the Chicago School, 1892-1918. Transaction Publishers. p. 140. ISBN 978-1-4128-2681-5. https://books.google.com/books?id=pxyawnCLX0IC&pg=PA140 
  12. ^ Mary Jo Deegan (1988). Jane Addams and the Men of the Chicago School, 1892-1918. Transaction Publishers. p. 184. ISBN 978-1-4128-2681-5. https://books.google.com/books?id=pxyawnCLX0IC&pg=PA184 
  13. ^ a b c Sands, Roberta G. 2014. “William I. Thomas, The unadjusted girl”. Qualitative Social Work, 13:725-728. Retrieved November 2, 2014 (http://qsw.sagepub.com/content/13/5/725).





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