がいし 製造方法

がいし

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/10 23:25 UTC 版)

製造方法

磁器製のがいしは、一般に以下の方法で製造される。原料としては陶石、長石珪石粘土などが用いられる。天草陶石を用いると高い強度のものが得られ、九州のみならず東海地方の製造業者もこれを取り寄せて原料としている[13]。高い性能を求められる用途には精製された酸化アルミニウムが加えられることもある。原料を粉砕して粉末にし、水を加えて泥状にする。円筒形のものは押出成形と切削法、懸垂碍子は丸鏝成形によって所定の形状に整える。プレス成形や鋳込み成形などの手法を用いることもある[14]。これを十分に乾燥した後、釉薬を塗布し1,300 - 1,350℃で焼成し焼結させて磁器とする[15]

歴史

初期の碍子は木製あるいはガラス製であったが、後に絶縁性能や強度の高い磁器製品が使われるようになった。1890年代、アメリカ合衆国内やヨーロッパ[16]電力網が普及する際には主として磁器製のピン碍子が使用された。1900年代には66,000ボルトに対応する製品も開発されたものの大型で高価であった。これに代わるものとしてLOCKE社により懸垂碍子が考案され1920年代から使われるようになった[17]

合成樹脂の利用

1957年に環状脂肪族エポキシ樹脂が開発され、コイルの絶縁材料など屋内用として用いられていた。これを応用した屋外用碍子は1960年代前半にイギリスやアメリカ合衆国で製造されたが信頼性の低いものであった。実用的な製品は1964年にドイツで開発され、1970年代にかけてフランス、イギリス、アメリカ合衆国などでも製造されるようになった[11][18]

日本における歴史

1854年(嘉永6年)にアメリカ合衆国からモールス電信機がもたらされ、1855年8月 (安政2年7月) に小田又蔵と勝海舟電信の実験を行っているが、この技術は実用されることはなく忘れられた[19]榎本武揚はオランダ留学で電信技術を学び、1867年 (慶応3年) にモールス印字電信機とともに電線やがいしを持ち帰ったが、実用には至らなかった[20][要検証]。がいしを必要とするような長距離の通信網や送電網の登場は、明治維新を待たねばならない。

1869年10月23日 (明治2年9月19日) に東京—横浜間で公衆用電信線の建設工事が開始された。がいしの本格的な利用はこの頃に始まると考えられる。当時は、新陶器、インスレット、インシュレートル、電碗などと呼ばれていた[21]。当初は「赤碍子」と呼ばれるとび色の輸入品が用いられていた[22]。しかしながら輸入品は不良率が高く、1個あたり25-26もかかる高価なものであった (当時の白米1升が5銭)。このため政府は、がいしの国産化を推進した[23]。1875年発行の『電信頭第一報告』には、電線以外の部品や機器は電信寮 (逓信省の前身) 内で製造したり、外部の職工に命じて作らせるようになり、輸入品は非常に減ったとある[24]有田焼の製造や貿易を手がけていた深川栄左衛門 (8代) は1870年 (明治3年) に電信寮からがいし製造の打診を受け、同年暮れに試作品を納入したところ採用されたという[25]。深川は後に香蘭社を設立した。

国産がいしは輸入品と遜色ない性能を持つようになったが、架線の距離が延びるにしたがって通信障害にみまわれるようになった。海岸近くの電信線で雨天に起こりやすいことから塩害による絶縁低下が原因とわかり、1883年頃から絶縁部の傘を二重構造に成形した二重通信用がいしを用いるようになった。これが国産通信用がいしの主流となった[26][22]

1887年11月29日に東京電灯株式会社の第2電灯局 (火力発電所。日本橋茅場町) が架空電線による送電サービスを開始し[27]、大阪、名古屋、京都などでも電灯会社が開業した。当初は送電の範囲が狭かったため、発電所からの送電も125-220ボルト程度の低圧であり、絶縁には電信用のピンがいしが流用された。しかし後に発電所が集中化、大規模化して消費地との距離が増すと送電電圧も高くなったため、ピンがいしを多数連結した形式の懸垂がいしが用いられるようになった[28]

食器と異なり外観品質を問われない碍子は生産が容易であり、陶磁器業界各社の重要な収益源となった。1907年(明治40年)、日本陶器合名会社(後のノリタケカンパニーリミテド)の百木三郎により15,000ボルトの送電に対応した製品が、1909年(明治42年)にはさらに45,000ボルトに対応したピン碍子が開発され[29][30]、同社の発展と電力網の発達に貢献した[31]1910年(明治43年)、瀬戸町(後の瀬戸市)の加藤杢左衛門を称する工場において電力を利用した生産が始められた。電力網の発達により、1915年(大正4年)頃になると業界全体に自動化が普及し生産性が向上した[32]

1990年(平成2年)頃、樹脂碍子を66,000ボルトから275,000ボルトまでの高電圧送電網に適用するための実用化試験が電力中央研究所電力会社などによって始められた。同時期に鉄道総合技術研究所勝木塩害試験場において鉄道用途に対する試験も行われ、1993年(平成5年)には東海道新幹線での使用が始まり磁器製から樹脂製への置き換えが進んだ[12]

脚注


  1. ^ 『絶縁・誘電セラミックスの応用技術』pp.231
  2. ^ Chesney, C. C. (1903) "Burning of Wooden Pins on High-Tension Transmission Lines," Transactions of the American Institute of Electrical Engineers XXI pp.253-260
  3. ^ 『絶縁・誘電セラミックスの応用技術』pp.233
  4. ^ 『絶縁・誘電セラミックスの応用技術』pp.234
  5. ^ 日本セラミックス協会編『セラミック工学ハンドブック第2版応用編』pp.753-756、日本セラミックス協会編、技報堂出版、2002年
  6. ^ 素木洋一『焼結セラミックス詳論4 ファインセラミックス』pp.714-719、技報堂、1976年
  7. ^ 京町家での採用例 “あかりの再生 その3 碍子引き配線”. 堀 宏道. 作事組コラム. 京町家net. 2010年9月11日閲覧。
  8. ^ 『絶縁・誘電セラミックスの応用技術』p.228
  9. ^ 作花済夫ほか編『ガラスハンドブック』p.121、朝倉書店、1975年
  10. ^ 『絶縁・誘電セラミックスの応用技術』p.229
  11. ^ a b Hall, J.F. (1993) "History and bibliography of polymeric insulators for outdoor applications," IEEE Transactions on Power Delivery 8 (1) pp.376-385
  12. ^ a b Izumi, K. and Kadotani, K. (1999) "Applications of polymeric outdoor insulation in Japan," IEEE Transactions on Dielectrics and Electrical Insulation 6 (5) pp.595-604
  13. ^ 高嶋廣夫『実践陶磁器の科学』pp.179-190、内田老鶴圃、1996年
  14. ^ 『絶縁・誘電セラミックスの応用技術』pp.237-239
  15. ^ 浜野健也ほか編『窯業の事典』pp.281、朝倉書店、1995年、ISBN 4-254-25237-4
  16. ^ Semenza, Guido (1904) "European Practice in the Construction and Operation of High-Pressure Transmission Lines and Insulators," Transactions of the American Institute of Electrical Engineers XXIII pp.147-163
  17. ^ Hawley, K. A. (1931) "Development of the Porcelain Insulator," Transactions of the American Institute of Electrical Engineers 50 (1) pp.47-51
  18. ^ 新保正樹編『エポキシ樹脂ハンドブック』p.426、日刊工業新聞社、1987年、ISBN 4-526-02279-9
  19. ^ 安岡孝一・安岡素子 『文字符号の歴史 欧米と日本編』共立出版、2006年、pp. 16ff頁。 
  20. ^ 山崎敏雄・木本忠昭 『新版 電気の技術史』オーム社、1992年、pp. 202f頁。 
  21. ^ 有田町史編纂委員会編『有田町史陶業編2』pp.220-238、有田町、1985年
  22. ^ a b 宮武勇平編『逓信史要』pp.195、逓信省、1898年
  23. ^ 日本碍子株式会社社史編纂委員会、1970年、沿8。
  24. ^ 工部省電信頭 (芳川顕正) 『日本帝国政府電信頭第一報告書』1875年、pp. 39f頁。 収載郵政省編 編 『郵政百年史資料』 第19巻、吉川弘文堂、1969年。 
  25. ^ 中山成基 『有田窯業の流れとその足おと: 香蘭社百年の歩み』香蘭社、1980年、pp. 6f, 20頁。 
  26. ^ 藤村、1992年、pp.186f。
  27. ^ 新田宗雄編 編 『東京電灯株式会社開業五十年史』東京電灯、1936年、pp. 24ff頁。 複写収録 『社史で見る日本経済史』 7巻、ゆまに書房、1998年。 
  28. ^ 電気学会通信教育会 『がいし』電気学会、1983年、p. 14頁。 
  29. ^ ノリタケ100年史編纂委員会編『ノリタケ100年史』p.32、ノリタケカンパニーリミテド、2005年
  30. ^ 橋爪紳也、西村陽、都市と電化研究会『にっぽん電化史』p.134、日本電気協会新聞部、2005年、ISBN 4-902553-17-1
  31. ^ 『近代日本の陶磁器業』pp.251
  32. ^ 『近代日本の陶磁器業』p.160,p.278,p.269


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