7世紀から8世紀のアラブ人による侵攻
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「ダゲスタンの歴史」の記事における「7世紀から8世紀のアラブ人による侵攻」の解説
詳細は「アラブ・ハザール戦争」を参照 ダゲスタンはイスラーム教徒のペルシア征服によりペルシア人統治からアラブ人統治に移ったが、この時期はアラブ人とハザール人が北東コーカサスをめぐって150年間戦争したことでも知られている。ウマル・ブン・ハッターブの治世中の643年、アブドゥッラフマーン・ブン・ラビーア・バーヒリー(英語版)率いるアラブ人軍勢がデルベントとその周辺地域を占領した。アブドゥッラフマーンは652年のバランジャル包囲戦(英語版)中に戦死した。662年にはハザール人がダゲスタンに侵攻した。698年、カリフのアブドゥルマリク(在位:685年 - 705年)の弟ムハンマド・ブン・マルワーンがデルベントを占領した。705年にはカリフのワリード1世(在位:705年 - 715年)の弟マスラマ・ブン・アブドゥルマリク(英語版)がデルベントを再び占領した。 722年、カリフのヤズィード2世(在位:720年 - 724年)が軍人のジャッラーフ・ハカミー(英語版)をデルベント要塞の守備に派遣した。歴史家のタバリーはジャッラーフの戦役について、「アラブ人はダゲスタン南部でハザール人を撃破した後、ダゲスタンの山岳地帯に進んだ。彼らはKhamzinとグミクの人々の抵抗を乗り越え、臣従を拒否したカイタグ(英語版)とタバサラン(英語版)への懲罰的な遠征で彼らを略奪した」と記述した。歴史家のバルアミー(英語版)は723年の記述でジャッラーフが「近しい指揮官1人を呼びつけて戦士3千人を与え、『カイタグに行って、途中であった全ての者を破壊して、抵抗する者全員と戦って、日の出までに私の前に帰ってくるように』と命じた」とした。ジャッラーフ率いるアラブ人軍勢は723年にダゲスタンを行軍してバランジャルを占領した(英語版)が、彼は730年のマルジ・アルダビールの戦い(英語版)で戦死した。 マスラマは730年から731年にかけて鉄の門を7つ築いて「できる限りの方法でデルベントを要塞化した」後、「軍を率いてグムクに進軍した」。732年、マルワーン・ブン・ムハンマド(カリフのヒシャーム・ブン・アブドゥルマリクのいとこ)が強固な要塞を突破してダゲスタンの諸統治者に年貢を支払わせた。9世紀のペルシア人ジャービル・ブン・ハイヤーン[要検証 – ノート]はグミクとKhunzakhが占領された後、マルワーンが「そこから離れ、Tumenの地に入った」と記述した。9世紀の歴史家バラーズリー(英語版)によると、マルワーンは軍勢12万を率いてハザール領に侵攻した。ハザール軍は連敗してサマンダル(英語版)を占領された。797年、ハザールは再びダゲスタンに侵攻した。 9世紀と10世紀にも散発的な戦闘がおきたが、10世紀にハザールが崩壊したため大規模な戦闘はなくなった。以降は数世紀間ジョチ・ウルスなど遊牧民族の統治が続いた。
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