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アブドゥルマリク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/04/15 14:40 UTC 版)

アブドゥルマリクあるいはアブド・アルマリク647年705年Abd al-Malik ibn Marwanعبد الملك بن مروان)は、ウマイヤ朝の第5代カリフ(在位:685年705年)。ウマイヤ朝中興の英主と評価される。

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略歴

685年に父である第4代カリフのマルワーン1世が死に、カリフに即位する。即位後はムアーウィヤ(1世)死後から進むイスラム世界の分裂を抑えるため、軍を動かして反対運動を制圧した。692年、アル=ハッジャージュの率いる大軍をメッカに派遣し、カリフを自称して反ウマイヤ運動を展開していたクライシュ族の有力者イブヌッ・ズバイルを滅ぼし、帝国全土の支配を回復した[1]。対外面においては東ローマ帝国と戦って領土を拡大したうえ、東はアル=ハッジャージュをイラク総督に、西はムーサー・イブン=ヌサイルを北アフリカ総督に任じ、2人の活躍により、それぞれシンドソグディアナ地方とモロッコ西部まで版図を拡大した。経済面においては、新たに金貨ディーナール金貨)・銀貨ディルハム銀貨)を鋳造した。彼の治世においてアラビア語公用語にしたことは功績のひとつといわれている。しかし、キリスト教徒を嫌って激しく弾圧した。705年、59歳で死去し、後を子のワリード1世が継いだ。

岩のドームの建設

詩作にも優れた教養人で、エルサレムに「岩のドーム」を建設している。これは、ユダヤ教徒によって神聖視されていた巨岩を覆って建てられた建物である[1]

脚注

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  1. ^ a b 嶋田(1978)p.17

出典

  • 嶋田襄平「ウマイヤ朝とダマスクス」前嶋信次石井昭編集『世界の文化史蹟第10巻 イスラムの世界』講談社、1978年。



アブドゥル・マリク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/01/24 13:58 UTC 版)

アブドゥル・マリク・パフラワン1963年 - )は、アフガニスタンの政治家、軍人。大将。ラシッド・ドスタムが率いるアフガニスタン民族イスラム運動の有力者だったが、アフガニスタン内戦中に裏切った。

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経歴

ファーリヤーブ州シリンタガブ郡出身。父のシャムス・パフラワンは、ウズベク人で、村の長老、母はカンダハール出身のパシュトゥーン人。マリク自身は、自らをウズベク人と考えている。

マイミネ市のザイヌディッン・ファーリヤーブ貴族学校を卒業。正規の軍事教育は受けていない。

ソ連のアフガニスタン侵攻

  • 1982年 - 政府軍に召集され、ファーリヤーブ州で勤務
  • 1983年 - 軍から脱走し、兄のラスール・パフラワンが指揮するムジャーヒディーン部隊に加わった。
  • 1987年 - 「民族和平政策」時、ラスールとアブドゥルは、ムハンマド・ナジーブッラー政権側に移り、国軍に編入された。アブドゥルは、少尉の階級を得て、ラスールが指揮するウズベク人大隊(シリンタガブ郡)に勤務した。
  • 1988年 - 大隊は、第511ウズベク人旅団に改編
  • 1992年 - 旅団は、第511ウズベク人師団に改編
  • 1992年 - 大佐に昇進し、副師団長となる。

アフガニスタン内戦

1992年のナジーブッラー政権崩壊後、ラスールと共に、ラシッド・ドスタム将軍が率いるアフガニスタン民族イスラム運動に加わり、その対外関係局長、中将となった。

兄ラス-ルは、アフガニスタン北部のウズベク人住民中に勢力を拡大することを目論見、1994年、ブルハーヌッディーン・ラッバーニーに対して軍事行動を開始し、ターリバーンとも交渉を始めたが、1996年に暗殺された。同年、アブドゥルは、兄の代わりにファリャーブ州知事となった。

1997年5月19日、弟のゴリと共に、ドスタムの退陣を要求し、ターリバーンに対して戦線を開放した。その結果、5月25日にターリバーンは、マザーリシャリーフに入城した。5月27日、交渉が妥結しなかったため、アブドゥルは、ハザラ人部隊と共にターリバーンに対して戦闘行動を再開した。5月27日~28日の間、約3千人のターリバーン部隊は撃滅され、外務相ゴウス師、航空相マンスール師等が捕虜となった。大部分の捕虜は、マリクの命令により銃殺された。

1997年5月29日、自らをアフガニスタン民族イスラム運動の党首と宣言した。ドスタムが国外に逃亡したため、1997年5月~8月の間、マリクは、事実上、アフガニスタン北部のウズベク人の指導者となった。

1997年8月~9月、ドスタムがマザーリシャリーフに戻ると、マリクの甥(弟ゴリの息子)がドスタムの娘と結婚し、ドスタムの息子がゴリの娘と結婚するという政略結婚で和解した。

1997年9月、ターリバーンの新期攻勢により戦線が崩壊したため、マザーリシャリーフをハザラ人部隊に委ね、シベルガン市地区に撤退した。

1998年秋、ウズベク人部隊の壊滅後、アフガニスタンを離れる。

現在

1998年から主としてイランに在住。イスラム・カリモフ体制を支持し、トルコパキスタンから支援を得ようとしている。ラッバーニーとロシアには敵対している。






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