1996-1997シーズンより2004-2005シーズン
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「バッファロー・セイバーズ」の記事における「1996-1997シーズンより2004-2005シーズン」の解説
1996年5月22日、シーモア・H・ノックス3世オーナーが亡くなった。シーズン序盤にラフォンテーヌが脳震盪でチームを離脱、ハシェックがベジーナ賞とハート記念賞を同時受賞する活躍を見せた。チームは40勝30敗12分でノースイースト・ディビジョン1位となった。プレーオフでハシェックは、スポーツライターのジム・ケリーともみ合い、出場停止処分を受けた。控えゴーリーのスティーブ・シールズ(Steve Shields)の活躍でオタワ・セネターズを4勝3敗で破り、2回戦に進んだが、フライヤーズに1勝4敗で敗れた。テッド・ノーランヘッドコーチは、ジャック・アダムス賞に選ばれたが解任された。 1997-1998シーズン、リンディ・ラフがヘッドコーチに就任した。ハシェックは、ベジーナ賞とハート記念賞に選ばれる活躍を見せた。チームは36勝29敗17分でディビジョン3位となった。この年、ハシェックは長野オリンピックにチェコ代表で出場した。プレーオフではフライヤーズを4勝1敗、カナディアンズを4連勝で破り、イースタン・カンファレンス決勝に進出したが、キャピタルズに2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、チームは売却された。このシーズン、セイバーズはハシェックをはじめ、エンフォーサーのマシュー・バーナビー (Matthew Barnaby)、左ウイングのミロスラフ・サタン (Miroslav Satan)、右ウイングのドナルド・オーデット (Donald Audette)、センターのマイケル・ペカ (Michael Peca) らベテラン選手がそれぞれの持ち場で力を発揮した。 1989-1999シーズン、ハシェックは、3年連続、6年間で5度目となるベジーナ賞に選ばれた。チームは37勝28敗17分でディビジョン4位、プレーオフにイースタン第7シードで進出した。プレーオフ1回戦でディビジョン1位のセネターズを4連勝で破り、2回戦でブルーインズを4勝2敗で、カンファレンス決勝でトロント・メープルリーフスを4勝1敗で破った。ダラス・スターズとのスタンレー・カップファイナルでは、第1戦を延長の末、ジェイソン・ウーリーの決勝ゴールで3-2で勝利した。第2戦に敗れ、第3戦も地元で1-2と敗れた後、第4戦は2-1で勝利したが、第5戦は敗れて2勝3敗で迎えた第6戦、トリプルオーバータイムの末、ブレット・ハルに決勝点を許し、2勝4敗で敗れた。ただし、決勝ゴールの際ハルのスケートが明らかにゴール・クリーズ(ゴールネット前のエリア)を犯しており、1999年当時のホッケーのルール上は攻撃側選手がこのエリアにいる場合のゴールは無効とされていたため、スターズの勝利は物議を醸した。その当時スターズの地元紙『ダラス・モーニング・ニュース』(Dallas Morning News) のホッケー担当記者だったキース・ゲイヴ (Keith Gave) ですらも、このゴールの妥当性に疑問を呈したほどであった。40ゴールを決めたサタンに加え、新たにピッツバーグ・ペンギンズからセンターのスチュ・バーンズ (Stu Barnes)、またキャピタルズからジョー・ジュノー (Joe Juneau) を獲得した。ミハル・グロセク (Michael Grosek) は自身最高のシーズン成績を収めた。 1999-2000シーズン、ハシェックが怪我のため35試合の出場にとどまり、新人のマーティン・ビロン (Martin Biron) が多くの試合に出場した。チームはカロライナ・ハリケーンズをわずか1ポイント差で上回り、プレーオフ出場を果たしたが、フライヤーズに1勝4敗で敗れた。 2000-2001シーズン、ハシェックが怪我から復帰し、ベジーナ賞を獲得した。キャプテンのマイケル・ペカ (Michael Peca)が契約のこじれからホールドアウトを行った。チームはディビジョン2位でプレーオフに進出、プレーオフ1回戦でフライヤーズを4勝2敗で破った。2回戦進出を決めた試合では8対1と完璧な勝利を収めたが、ペンギンズとの2回戦では地元で連敗した後、敵地ピッツバーグで連勝、ホームの第5戦も勝利して、シリーズ優勝まであと1勝となったが、第6戦、第7戦をいずれも落として敗れた。第7戦ではダブルオーバータイム終盤、ダリウス・カスパライティス (Darius Kasparaitis) に決勝ゴールを許した。 2001-2002シーズン開幕前には、ペカをニューヨーク・アイランダーズにトレードした。またハシェックとの長期に渡る契約交渉も不調に終わって、セイバーズはハシェックをデトロイト・レッドウィングスにトレードした。チームは6シーズンぶりにプレーオフ進出を逸した。 2002年7月、チームオーナーで Adelphia Communications のCEOでもあるジョン・ライガス (John Rigas) が、同社から10億ドル以上の資金を業務上横領した容疑で逮捕されるなど、チームを取り巻く環境が急激に悪化していった。このためチームは短期間リーグによって管理運営された後、2003年1月には破産申請をし、その後ニューヨーク州ロチェスター在住の富豪で、ニューヨーク州知事選候補者であったトム・ゴリサーノ (Tom Golisano) に9200万ドルで買収された。 この後チームは混乱からの脱却を図り、ダニエル・ブリア (Daniel Briere)、デレク・ロイ (Derek Roy)、ロリー・フィッツパトリックら若手の登場・躍進も見られた。 2003-2004シーズン、カルガリー・フレームスからクリス・ドュリューリー (ChrisDrury) を獲得した。チームはシーズン前半の不振から後半持ち直したものの、レベルの高いノースイースト・ディビジョン最下位に終わり、プレーオフ進出を逸した。 2004-2005シーズンはロックアウトによりNHLの試合開催が中止された。
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