121形登場の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/31 13:50 UTC 版)
「阪神121形電車」の記事における「121形登場の背景」の解説
武庫川の支流であった枝川、申川の廃川敷を開発した甲子園は、住宅地をはじめ阪神甲子園球場や阪神パークなど、阪神が力を入れて開発に取り組んだ地域であるとともに、当時は遠浅の海岸で阪神間でも有名な海水浴場であったほか、西宮七園のひとつとして阪神間モダニズムの主要な舞台でもあった。その甲子園を南北に貫く形で建設された甲子園線は、住宅地と鉄道駅を結ぶ路線であるとともに、シティリゾートへの観光客を運ぶ路線でもあった。1936年に阪神パークと中津浜、六甲山植物園の3ヶ所を会場とした「輝く日本博覧会」が開催された際、博覧会のPRと納涼観光を目的とした電車を登場させることとなり、手持ち資材を有効活用して121形を製造した。 121形は、1936年6月に121・122の2両が101形有蓋電動貨車105・106号の改造名義で登場し、1938年4月に123・124の2両が61形63・64の改造名義で登場した。
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