黒森街道とは? わかりやすく解説

黒森街道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:57 UTC 版)

秋田峠」の記事における「黒森街道」の解説

黒森街道は元和3年1617年)に梅津政景が『梅津政景日記』に記載したルートで、彼は「黒森通殊外切所、始罷通候」と記録している。浅見内からは滝ノ下沢をたどり現在の地形図にも記載がある不動滝を過ぎ、標高329mのピークの西250mにあるマド切通し三種町側に出て、そこから稜線付近辿り黒森に至る。黒森とは現在上小阿仁村三種町五城目町の3町の境となっている標高330mの山で、当時ルートとしては最大難所であったこの街道が山本郡上岩川村秋田郡南沢の境となっていたと言われている。黒森からは稜線をたどり小田沢上流から小田瀬沢を下り小田瀬に至った1745年延享2年2月中旬山中洪水となって道の往来途絶えた25日異変がどうして起きたかわからないということで、検知役の丹内藤右衛門部下命じてこれを検証した。すると小田瀬の山の山頂2つにわかれ、頂上樹木流れ倒れて水流止め残土自然に土手となっていて、380間ほどの沼になって深さわからず水底確認できなかった。久保田藩士の人見蕉雨によって1798年寛政10年)頃に著された『黒甜瑣語』にも小田瀬の山崩れ記録されている。(今の山形県大石田の龍の話に続き大館市比内町独鈷大日堂延享の頃に、一人盲人通夜をしていた。そこへ老人が来たので一緒に話し合った盲人若い頃琵琶弾いたというと老人鳳凰山の麓の寺(玉林寺)に比内浅利氏使っていた琵琶があるという。浅利家が滅びたので長い間演奏されていなかったが、4本の弦が無事な持ってましょうと言いほどなく携えてくる。これを盲人終夜かきならす老人喜び、私はまもなく遠くに去るが、今宵は思わずこの曲を聞いて百年の深い思い感じたと言って琵琶老人与えて去って行った。それから1月過ぎてから、小田瀬の山が蟄龍天昇して山崩れがあった。これも大石田の話に類する話なのだろうか。この琵琶はまだ大日堂にあるという。延享のむかしの小田瀬の山崩れの件はある人が言うには、乙卯1735年思われる)の卯月4月)の末かた小阿仁仏社に沼があって、そこに怪獣住んでということ長く伝わっていたが、ジュンサイ商売する農夫がこれに捕らわれてしまった。その弟が怒って阿仁小沢から汁というものを運び、これを燃やし精衛が海を埋めようとする気持ちのようにやたら打ち込んでがまんすることが難しかった。すると怪獣7-8離れた所に大堤一夜のうちに造って、そこに移った思われる早口沢でも同じ様な事が起きたのだろう。

※この「黒森街道」の解説は、「秋田峠」の解説の一部です。
「黒森街道」を含む「秋田峠」の記事については、「秋田峠」の概要を参照ください。

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