黒森街道
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黒森街道は元和3年(1617年)に梅津政景が『梅津政景日記』に記載したルートで、彼は「黒森通殊外切所、始罷通候」と記録している。浅見内からは滝ノ下沢をたどり現在の地形図にも記載がある不動滝を過ぎ、標高329mのピークの西250mにあるマドの切通しで三種町側に出て、そこから稜線付近を辿り黒森に至る。黒森とは現在上小阿仁村と三種町、五城目町の3町の境となっている標高330mの山で、当時のルートとしては最大の難所であった。この街道が山本郡上岩川村と秋田郡南沢村の境となっていたと言われている。黒森からは稜線をたどり小田瀬沢上流から小田瀬沢を下り小田瀬に至った。 1745年(延享2年)2月中旬に山中が洪水となって道の往来が途絶えた。25日に異変がどうして起きたのかわからないということで、検知役の丹内藤右衛門は部下に命じてこれを検証した。すると小田瀬の山の山頂は2つにわかれ、頂上の樹木が流れ倒れて雨の水流を止め、残土は自然に土手となっていて、380間ほどの沼になって深さはわからず水底は確認できなかった。久保田藩士の人見蕉雨によって1798年(寛政10年)頃に著された『黒甜瑣語』にも小田瀬の山崩れは記録されている。(今の山形県大石田の龍の話に続き)大館市比内町独鈷大日堂に延享の頃に、一人の盲人が通夜をしていた。そこへ老人が来たので一緒に話し合った。盲人が若い頃は琵琶を弾いたというと、老人は鳳凰山の麓の寺(玉林寺)に比内浅利氏が使っていた琵琶があるという。浅利家が滅びたので長い間演奏されていなかったが、4本の弦が無事なら持ってきましょうと言い、ほどなく携えてくる。これを盲人が終夜かきならすと老人は喜び、私はまもなく遠くに去るが、今宵は思わずこの曲を聞いて百年の深い思いを感じたと言って琵琶を老人に与えて去って行った。それから1月程過ぎてから、小田瀬の山が蟄龍が天昇して山崩れがあった。これも大石田の話に類する話なのだろうか。この琵琶はまだ大日堂にあるという。延享のむかしの小田瀬の山崩れの件はある人が言うには、乙卯(1735年と思われる)の卯月(4月)の末かた小阿仁の仏社村に沼があって、そこに怪獣が住んでるということが長く伝わっていたが、ジュンサイを商売する農夫がこれに捕らわれてしまった。その弟が怒って阿仁の小沢から鉄汁というものを運び、これを燃やし精衛が海を埋めようとする気持ちのようにやたら打ち込んで、がまんすることが難しかった。すると怪獣は7-8町離れた所に大堤を一夜のうちに造って、そこに移ったと思われる。早口沢でも同じ様な事が起きたのだろう。
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