高瀬井堰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 23:41 UTC 版)
高瀬堰が建設される以前、この地点には江戸時代に建設された灌漑用の固定堰である高瀬井堰(たかせ-いぜき)が建設されていた。 江戸時代、安芸国は広島藩浅野氏42万石の領地で西国でも屈指の大藩であった。初代藩主・浅野長晟の治世、安北郡小田庄の庄屋であった丸子市郎兵衛は新田開発を行い収穫を上げるために太田川から水を引く用水路建設の計画を立てた。計画は太田川・三篠川・根谷川の三川合流点直下流に堰を設けて、そこから用水路を下流に建設するものであった。だが計画を実行に移す事無く市郎兵衛は没し、その遺志は息子である丸子市兵衛に委ねられる事となった。 市兵衛は広島藩庁に1648年頃より用水建設の許可を申請したが、藩庁から許可が下りたのはそれより7年後の1655年であった。許可が下りると市兵衛は早速工事に取り掛かる事にした。まず、口田村の友竹瀬尻山地点に取水堰を建設、そして右岸部を起点として全長42.0km、幅2.0mの用水路を2年がかりで建設した。この用水路は「小田定用水」と呼ばれ、その取水堰である固定堰が高瀬井堰である。堰と用水路は1657年に完成し、親子2代に亘る悲願は成就し以後太田川下流域の農地は大いなる恩恵を受けた。 市兵衛はこの用水路計画に文字通り命を掛けており、仮に事業が失敗に終わった際には自刃する心積もりであったといわれている。彼は近くの弘住神社に首を乗せる台を立て、失敗して自刃した際は介錯した首をこの台に乗せるように家族に指示したと伝えられており、この大事業に生涯を賭けた市兵衛の覚悟が伝わる逸話である。
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