高松宮宣仁親王
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高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年〈明治38年〉1月3日 - 1987年〈昭和62年〉2月3日)は、日本の皇族、海軍軍人。有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)[2]。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。
注釈
- ^ 威仁親王本人には、6月22日に後継者に関する内諭が伝達された(本人の項目を参照)。
- ^ 『Address of PRINCE TAKAMATSU』 高松宮宣仁親王 San Francisco May 27,1931。公家訛が混じりながらも潑剌とした声調であったという
- ^ 御料車のニッサン・プリンス・ロイヤルを改造し皇族霊柩車とした。2年後の昭和天皇大葬や、13年後の香淳皇后大葬にも同じ車両が運用された
- ^ なお同大学は甥にあたる第125代天皇上皇明仁の孫で、秋篠宮文仁親王・同妃紀子の長女・眞子内親王と次女・佳子内親王の姉妹が在籍・通学しており、高松宮・秋篠宮という皇統直系の直宮家の皇族が関わりを持ったということになる。同大学キャンパスの所在地である東京都三鷹市には、弟・三笠宮崇仁親王が名誉総裁を務めた「公益財団法人中近東文化センター」もあり、同じ天皇の弟宮同士が関わって共通した点にもなる
出典
- ^ 宮内庁「旧高松宮家」
- ^ 皇室略牒 宮内省図書寮
- ^ 大正2年宮内省告示第8号(『官報』号外、大正3年7月6日)(NDLJP:2952379)
- ^ 『官報』号外「宮廷録事」、大正13年7月11日(NDLJP:2952384/1/14)
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、33頁。
- ^ 大正14年宮内省告示第1号(『官報』第3716号、大正14年1月14日)(NDLJP:2955864/1/2)
- ^ 『官報』第279号「敍任及辭令」、昭和2年12月2日(NDLJP:2956739/1/4)
- ^ 昭和5年宮内省告示第5号(『官報』第929号、昭和5年2月5日)(NDLJP:2957396)
- ^ 原 2017 p.406
- ^ 原 2017 p.407
- ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.198
- ^ 『官報』第2663号「敍任及辭令」、昭和10年11月16日(NDLJP:2959142/1/4)
- ^ 有馬 2001 p.27
- ^ 『官報』第4160号「敍任及辭令」、昭和16年11月16日(NDLJP:2960658/1/6)
- ^ 千早 1995p.13
- ^ a b 千早 1995 p.14
- ^ 寺崎 1995 p.89-90
- ^ 寺崎 1995 p.107,p.112
- ^ 細川護貞『細川日記』 上巻、昭和十九年七月十一日の条より、p266 (中公文庫、2002年改版) ISBN 4-12-204072-8
- ^ 寺崎 1995 p.123-124
- ^ 寺崎 1995 p.122-123
- ^ 吉田 1992 [要ページ番号]
- ^ 秦郁彦 『裕仁天皇五つの決断』 講談社 p.276
- ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
- ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.135
- ^ 柴山太 『日本再軍備への道―1945‐1954年』 ミネルヴァ書房 p.548
- ^ 吉田 1992 p.74-75
- ^ 寺崎 1995 p152(鈴木内閣 (十一)八月十二日の皇族会議)
- ^ 『入江日記』[要ページ番号]
- ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.234
- ^ a b 高松宮妃喜久子 1998 p.240
- ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.46-53
- ^ 『官報』第3982号「授爵・敍任及辭令」、大正14年12月2日(NDLJP:2956132/1/2)
- ^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」、昭和6年12月28日
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」、昭和16年10月23日(NDLJP:2960937/1/26)
- ^ the Royal Decree of 30.07.1930
- ^ 『官報』第1080号「宮廷録事」、昭和5年8月5日(NDLJP:2957547/1/2)
- ^ 『官報』第1085号「宮廷録事」、昭和5年8月11日(NDLJP:2957552/1/3)
- ^ 『官報』第1100号「宮廷録事」、昭和5年8月28日(NDLJP:2957567/1/4)
- ^ 『官報』第1106号「宮廷録事」、昭和5年9月4日(NDLJP:2957573/1/2)
- ^ 『官報』第1157号「宮廷録事」、昭和5年11月6日(NDLJP:2957624/1/3)
- ^ 『官報』第1164号「宮廷録事」、昭和5年11月14日(NDLJP:2957631/1/3)頸飾
- ^ 『官報』第1204号「宮廷録事」、昭和6年1月7日(NDLJP:2957672/1/5)
- ^ 『官報』第1222号「宮廷録事」、昭和6年1月28日(NDLJP:2957692/1/2)
- ^ 『官報』第1224号「宮廷録事」、昭和6年1月30日(NDLJP:2957692/1/2)
- ^ 『官報』第1229号「宮廷録事」、昭和6年2月5日(NDLJP:2957697/1/3)
- ^ 『官報』第554号「宮廷録事」、昭和6年2月10日(NDLJP:2957701/1/11)
- ^ 『官報』第1267号「宮廷録事」、昭和6年3月24日(NDLJP:2957735/1/4)
- ^ 山階会『山階宮三代 下』P.291
- ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.139
- ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.124
- ^ 高松宮妃喜久子 1998 p.36
- ^ a b 高松宮妃喜久子 1998 p.90
- ^ 「高松宮様草津へ ライ病院御視察」『朝日新聞』昭和22年8月3日2面
- ^ 工藤美知尋『高松宮と終戦工作 和平を希求した宣仁親王の太平洋戦争』に詳しい。潮書房光人社<光人社文庫>、2014年
- ^ 太平洋戦争研究会編 『東京裁判がよくわかる本』 p.199 PHP研究所 2002年
- ^ 有馬 2001 p.23-24
- ^ 有馬 2001 p.19, p.26
- ^ 有馬 2001 p.23
- ^ 有馬 2001 p.25
- ^ 有馬 2001 p.21
- ^ 松永 1991p.58
- ^ 松永 1991p.59
- ^ a b 阿川弘之 『高松宮と海軍』 中央公論社 1999 p.102-103
- ^ 『明日への選択』 平成10年2月号
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