骨相学の隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 01:30 UTC 版)
骨相学は「19世紀で最も人気のあった大衆「科学」」であると言われてきた。大衆的な人気を博した理由は、精神と頭蓋骨の対応という考え方が直感的に理解しやすかったことに加えて、頭蓋骨の形という容易に計測できるものから個人の気質がわかるという主張により、専門家でなくても骨相学的性格判断を行うことができたためである。骨相学師(practitioner)たちが海辺の行楽地など各地に出没した。当時の名士たちはこぞって肖像画の額を広く描かせて、思慮深さをアピールする風潮も生まれたという。 シュプルツハイムは、1820年代の英国での骨相学の普及のために活動した。彼は、エディンバラとロンドンに骨相学を伝えた。そして、エディンバラ骨相学協会(1820年)、ロンドン骨相学協会(1823年)を設立し、「骨相学論集雑誌」(1823年)を発刊した。 骨相学を自助の思想と結びつけた、スコットランドの弁護士ジョージ・クームの『人間の構造』(The Constitution of Man 1828年)などの影響を受けて、骨相学はアメリカ合衆国でも人気を博した。この著作は1860年までに、英国で10万部、米国で20万部売れた。 1822年、フランス政府はシュプルツハイムの講義を禁止した。 1832年、パリに骨相学会が設立された。頭蓋骨の収集と脳の計量が流行し、巷に骨相図が氾濫した。欧米のあちらこちらの町で骨相学会が誕生し、多くの有名な学者が、骨相学という学問研究の発展のために、自分の頭蓋骨を死後に提供した。 またスヴェーデンボリ、ハイドンら有名人の頭蓋骨が、熱心な骨相学者によって墓から持ち去られる事件が起こった。
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