雑喉場魚市場とは? わかりやすく解説

雑喉場魚市場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:48 UTC 版)

「ざこば」の記事における「雑喉場魚市場」の解説

豊臣政権下、当初天満鳴尾町現在の北区天神西町)に居た商人らは、開発が進む船場へと移り、靱町・天満町(のち本靱町・本天満町。現在の中央区伏見町1丁目・2丁目)が形成された。このうち生魚17軒が1618年元和4年)に6筋南へ移転し、上魚屋町現在の中央区安土町1丁目)が形成された。 しかし、船場でも東横堀川寄りのこの地は魚荷集散に不便であった上に、酷暑時期生魚腐敗するおそれがあった。そこで生魚商たちは漁船行き来のある京町堀川下流鷺島現在の西区京町堀3丁目・江戸堀3丁目)に出店(荷揚場)を設け毎年4月から8月まで出店取引し9月から翌年3月まで沖揚といって、その期間は本店帰った沖揚げ期間は仲仕あるいは船で魚荷を上魚屋町まで輸送させたが、多く仲仕鷺島付近に住んだ近隣西成郡野田村福島村などから雑魚類を鷺島持ってきて販売する者も出てきて、鷺島の称は廃れ雑喉場称するようになった大坂の二大水路である安治川木津川分流点である川口にも近く魚荷輸送有利な雑喉場生魚市場適していたため、本店を上魚屋町から雑喉場へ移す者が続出し、ますます栄えたちなみに、靱町・天満町に留まってい塩干商らも同様の悩み抱えており、1622年元和8年)に下船場移転して新靱町・新天満町海部堀川町を形成し、靱の海産物問屋街へと発展したまた、塩干商らの移転により、船場の靱町・天満町は本靱町・本天満町に改称された。 雑喉場では1720年享保5年)に問屋50軒、1736年元文元年)に56軒となり、1772年明和9年)、問屋84軒となり、冥加銀9貫目上納するまでになった雑喉場と靱の両問屋起源が同じで、雑喉場生魚のほか、塩魚売買し、靱は塩魚のほか、生魚売買したが、ついに両問屋営業範囲めぐって訴訟沙汰となり、1781年天明元年以降数回にわたる訴訟結果雑喉場生魚を、靱は塩魚および乾イワシ取り扱うことになった雑喉場問屋仲間から営業範囲侵害について訴えられたこともある。 雑喉場魚市は朝、昼、夕と1日3回立ち、九州四国中国および淡路和泉紀伊伊勢志摩など各地魚荷をほとんどすべて独占的に引き受けた嘉永年間株仲間再興ののち、雑喉場生魚問屋42であった幕末期には天満魚市場天神橋北詰に復活したが、府庁市役所至近地でもあった雑喉場生魚主たる市場として、1931年昭和6年3月大阪市中央卸売市場開設されるまでその地位保った。なお、1913年大正2年)には北隣の江戸堀南通青物市場江之子島より移転し1923年大正12年)に雑喉場北青市場改称したが、こちらも大阪市中央卸売市場開設に伴い廃止となった町名としては江戸時代より「雑喉場町」があったが、1872年明治5年)に京町堀通・京町堀上通江戸堀下通それぞれ5丁目改編された。現在の西区京町堀3丁目の西部江戸堀3丁目の南西部および新なにわ筋挟んで江之子島1丁目の東端にあたり、「雑喉場魚市場」の碑が江之子島立っている。

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