陳友定との戦いと最期とは? わかりやすく解説

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陳友定との戦いと最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/14 08:32 UTC 版)

胡深」の記事における「陳友定との戦いと最期」の解説

1365年2月、諸全が張士誠軍に攻められたため、耿天璧を援軍として送った陳友定の軍が処州攻めてきた。胡深迎撃に向かうと、これを聞いた陳友定は退却した胡深追撃をかけて浦城至った守備兵破り浦城攻略した4月進んで松渓抜け、守将・張子玉を捕らえた5月胡深は「松渓攻略し張子玉を捕らえました。敗れた敵軍は崇安へ奔りました。広信撫州建昌から軍を出し同時に攻めれば福建攻略できるでしょう」と朱元璋伝えた朱元璋喜んで張子玉は驍将である。これを捕らえたならば、陳友定の肝は潰れているだろう。この勢い乗って攻めれば、勝てない理由などない」と、広信指揮朱亮祖建昌左丞・王溥胡深合流させ、揃って進軍するよう命じた元帥頼政浦城の南で破った6月楽清攻略し方国珍鎮撫・周清、万戸・張漢臣、総管朱善らを捕らえて応天府送った朱亮祖らは崇安、建陽攻略し建寧胡深合流した建寧の守将・阮徳柔は固く守っていた。朱亮祖早く攻めたいと考えていた。胡深怪し気配感じ不利になる考えた胡深朱亮祖に「時機来ていないときに攻めれば必ず災いがある。まだ戦うべきではない」と提案した。これに対し朱亮祖は「参軍胡深)はなぜ災いがあると分かる?軍を率いてここまで来て攻め速さ緩められようか?天道奥深く山沢の気は常に変わり続けている。今のままで十分だ」と退けた。阮徳柔は4の兵を率いて錦江屯し胡深の陣の後に迫った朱亮祖はますます急いで攻めるようにと督戦した。退路断たれ胡深は阮徳柔と戦い2つの柵を破った。阮徳柔は幾重にも胡深の軍を囲んだ。日も暮れて胡深このままでは囲み解けず持ちこたえるのは難しいと考え囲み突破しようとした。そこへ陳友定自ら牙将・頼政及び2千の兵を率いて挟撃し、胡深は馬がつまづいて落馬し捕らえられた。 胡深陳友定の元に送られた。陳友定は胡深に礼を尽くし自身仕えるよう勧めた胡深朱元璋威徳天命朱元璋にあること、漢が竇融助けて帰属させた故事話し陳友定に説いた陳友定は「既に捕われの身というのに、人に不忠誘いをかけるとはどういうことか?」と笑った朱元璋使者良馬金幣持たせて胡深返還請うた。陳友定は胡深を殺す気はなかったが、やってきた元の使者処刑迫ったため、使者と共に処刑された。享年52胡深の死を知った朱元璋はこれを惜しみ使者遣わして、賜祭を行った縉雲郡伯の爵位を追封された。

※この「陳友定との戦いと最期」の解説は、「胡深」の解説の一部です。
「陳友定との戦いと最期」を含む「胡深」の記事については、「胡深」の概要を参照ください。

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