陳友諒を攻める
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/30 16:56 UTC 版)
翌年、朱元璋は陳友諒に対して掃討戦を開始する。康茂才も水軍を率いてこれに加わった。朱元璋軍は安慶、江州(九江市)という拠点を奪い、陳友諒は武昌(武漢市)にまで撤退する。朱元璋軍はさらに蘄州、興国、漢陽を奪い、最終的には陳友諒を戦死させ、その息子を降伏させる。朱元璋軍の諸将は皆功を認められ、康茂才は金吾侍衛親軍都護に出世する。 さらに大将軍徐達に従って廬州、江陵、及び湖南の各都市を占領する。この功により、さらに神武衛指揮使、大都督府副使に出世する。
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