阿波小笠原氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 06:24 UTC 版)
阿波小笠原氏の祖は小笠原長経の次男、長房である。承久3年(1221年)の承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となったとされる。ただし、今日の研究では実際には長房が長男で長忠は三男であったとする説があり、また長忠の系統は京都を活動の中心としていた可能性が高い。 文永4年(1267年)に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に26000町余りの所領が与えられ、岩倉城を拠点とした。 阿波の小笠原氏は南北朝時代には南朝に属したとされ、その子孫の多くは室町時代には国人化して阿波の守護を務めた細川氏に仕えたとされる。代表的な例としては三好氏、安宅氏、一宮氏(小笠原成助)、大西氏(大西覚養)、赤沢氏(赤沢宗伝)などが挙げられる(ただし、それぞれの出自には諸説ある)。阿波小笠原氏の子孫の三好氏などについては、それぞれの記事を参照。 その他の阿波小笠原氏の支流にも七条氏・高志氏などがある。
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