関山隧道建設時の爆発事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 06:02 UTC 版)
「関山トンネル」の記事における「関山隧道建設時の爆発事故」の解説
1866年にアルフレッド・ノーベルによってダイナマイトは発明されていたが、舶来品で高価だったため、関山隧道の建設には一般の火薬が用いられた。そのため火薬を運搬する際にも爆発の危険があり、工事現場近くの宮城県宮城郡作並村(現・宮城県仙台市青葉区作並)に設置された大伊勢沢火薬庫までの運搬経路と時間は厳重に決められた。運搬経路は、東京府から松島湾・桂島の石浜港(北緯38度19分59.7秒 東経141度6分7秒 / 北緯38.333250度 東経141.10194度 / 38.333250; 141.10194 (石浜港(塩釜港の外港)))に到着後、御舟入堀(地図、現・貞山運河の一部)を経由して蒲生(北緯38度15分32.7秒 東経141度0分33.3秒 / 北緯38.259083度 東経141.009250度 / 38.259083; 141.009250 (蒲生(運河と陸路の結節地)))で荷揚げし、旧・原町宿(北緯38度15分52.1秒 東経140度54分1.8秒 / 北緯38.264472度 東経140.900500度 / 38.264472; 140.900500 (旧・原町宿(江戸期の石巻街道下り第1宿駅)))を通って仙台区に入り、中心部の芭蕉の辻(北緯38度15分36.9秒 東経140度52分14.4秒 / 北緯38.260250度 東経140.870667度 / 38.260250; 140.870667 (芭蕉の辻(当時の仙台の中心部)))を避けて陸羽街道(奥州街道)および作並街道を下るというものだったが、石浜から作並まで3日間を要した。 1880年(明治13年)7月21日、粉火薬が入った木箱を運ぶ人夫の一団が旧仙台藩の坂下境目御番所跡(北緯38度22分31.3秒 東経140度34分27.9秒 / 北緯38.375361度 東経140.574417度 / 38.375361; 140.574417 (仙台藩・坂下境目御番所跡(爆発事故発生現場)))で休息していたとき、煙草の火が一団が運んでいた全火薬に引火して爆発し、死亡23名(うち胎児1名)、重傷8名を出す事故が発生した。 この事故を悼み、1926年(大正15年)に山形県側に「関山新道開鑿殉難之碑」、1929年(昭和4年)に宮城県側に「関山街道開鑿殉難之碑」が建立された。
※この「関山隧道建設時の爆発事故」の解説は、「関山トンネル」の解説の一部です。
「関山隧道建設時の爆発事故」を含む「関山トンネル」の記事については、「関山トンネル」の概要を参照ください。
- 関山隧道建設時の爆発事故のページへのリンク