開拓団の引揚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:48 UTC 版)
「引揚者」も参照 1945年(昭和20年)8月15日の太平洋戦争敗戦と共に暴徒化した中国人が押し寄せており、中国人やソ連兵からの虐殺や略奪・強姦の危険が迫っていた。黒川開拓団に隣接していた来民開拓団(熊本県)と高田開拓団(広島県)は、襲撃に耐えかねて既に集団自決し全滅していた。黒川開拓団でも服毒する自決の選択に迫られていた。 ここで団の幹部は、駅に駐留していたザバイカル軍第36軍のソ連兵に開拓団を守ってもらうという奇策を用い、生きて日本に帰還することを選んだ。その際に代償として、数えで18歳以上の12~15名の未婚女性がソ連軍の性接待係として差し出された(証言を参照)。女性らに拒否権はなく、団幹部に強制された性暴力であったと評価されている。ソ連侵攻後、ソ連兵からの強姦などは各地で行われていたが、性接待のために女性を差し出す事例は極めてまれであった。把握されているだけでも満州では48開拓団が集団自決しているが、接待に出された4人が性病で命を落とす一方で、団員数650名中450名が日本に帰還しており、驚くべき生還率であった。 接待所に設けられたベニヤ板張りの部屋に毎日数名の女性が呼ばれ、女性1人当たり4人の将校を相手に性交させられていた。部屋の外には医務室が置かれ、洗浄係(接待を受けた女性の妹など)が軍隊のうがい薬をホースで性器から子宮に入れて性病を防いでいた。また、女性たちのために風呂を用意していた。しかし、当然避妊せず毎日複数人から強姦されていたため性病や発疹チフスで4名が現地で死亡しているほか、帰国後長期入院を余儀なくされた女性もいた。 接待所は開拓団内と吉林省の陶頼昭駅の2か所にあり、接待は約9か月間続いた。博多港に引き上げた後、満州で強姦された女性が多く診察を受けた二日市保養所などで、中絶などの処置を受けた女性もいるとされている。
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