遠征の計画
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1781年9月、ウィリアム・アービン将軍がピット砦を本部とする大陸軍西部方面軍の指揮官に指名された。チャールズ・コーンウォリス将軍の指揮下にあったイギリス軍主力は1781年10月にヨークタウンで降伏しており、事実上東部での戦争は終わり、西部での闘争が続いていた。アービンは、フロンティアに住むアメリカ人がデトロイトに向けて軍隊を進発させ、それまで続いていたインディアン戦士隊に対するイギリス軍の支援を終わらせることを望んでいるのを直ぐに理解した。アービンは事情の調査を行い、1781年12月2日に大陸軍総司令官ジョージ・ワシントンに宛てて次のような手紙を書いた。 インディアンが国を荒らしていることから守るための唯一の方法は彼らを訪問することだと私は信じる。しかし、これまでの経験から彼らが居ない町を焼いても望んでいた効果が得られないことが分かってきた。彼らは直ぐに別の町を作ってしまう。彼らを追跡して叩き潰すか、彼らが支援を受けているイギリス軍を完全に領内から駆逐するしかない。デトロイトを破壊すれば、少なくともこの国に一時的な平安が訪れる方向に向かうものと信じる。 ワシントンは、アービンの言う西部での戦争を終わらせるために、デトロイトを占領するか破壊するしかないという判断に同意した。1782年2月、アービンはワシントンに攻撃計画の詳細を送った。アービンは、2,000名の兵士、5門の大砲および輜重隊があれば、デトロイトを占領できると計算した。ワシントンは、財政が破綻した大陸会議ではこの作戦の費用を負担できないと回答し、「現時点で小規模の攻勢作戦でなければ実現できない」と記した。 大陸会議や大陸軍からの資源が得られないままに、アービンは志願兵達にその攻勢作戦を組み立てる許可を与えた。デトロイトはあまりに遠く、小規模作戦では立ち向かえなかったが、デイビッド・ウィリアムソンのような民兵はサンダスキー川沿いのインディアン集落ならば遠征が可能だと考えた。その遠征は少ない予算のものになった。志願兵はそれぞれが馬、ライフル銃、弾薬、食料などの装備を自ら整える必要があった。給与は2か月間の任務についてのみ支払われ、他にインディアンから略奪できるものが報酬となるはずだった。1782年5月12日にペンシルベニア西部でバプテストの牧師が襲われ、その妻と子供達が殺されて頭皮をはがれるという事件があり、インディアンの襲撃が続いていたので、志願兵に不足することは無かった。 ワシントンが消極的だったので、アービンは自ら遠征隊を率いて行く権限を与えられていないと考えた。しかし、作戦立案にはその影響力を行使した。志願兵の指揮官に選ばれるはずの者に次のような詳細な指示を記した。 貴方の任務の目標はサンダスキーのインディアンの集落と開拓地を火と(実行可能ならば)剣で破壊することであり、そのことでこの国の住人に安心感と安全を与えることが期待されている。しかし、もし実行できるならば、貴方の権限でこの大きな目的に応えられるような別の行動を行うことについては疑いも無く許される。
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