連隊の立ち上げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/28 15:19 UTC 版)
「モーゼス・ヘイズン」の記事における「連隊の立ち上げ」の解説
ヘイズンの連隊はケベックからの撤退によって著しくその数を減らしており、1776年の夏から秋にまずタイコンデロガ砦で、続いてオールバニでの任務を与えられ、その後フィッシュキルでの冬季宿営を命じられた。この期間、ヘイズンは徴兵を続け、大陸会議からはアメリカのどこからでも徴兵してよいという許可を得た。北部の植民地ではそこの連隊を補充するのも困難であったので、ヘイズンは難渋した。他の徴兵担当者に競り負けることも多かった。中部植民地(主にニュージャージー、メリーランドおよびペンシルベニア)で徴兵したアンティルはより成功を収めた。1777年6月までにこの連隊は700名にまで達したが、承認されていた勢力は1,000名だった。当初のケベック出身の兵士と13植民地から徴兵した新しい兵士との間の文化的違いが、連隊内のよくある摩擦の原因になった。その結果、ヘイズンはフランス語を話す兵士を別の中隊にまとめた。 ヘイズンはケベックの自分の資産に対する損害について大陸会議に補償を求めた。当初の請求額は11,363ドルだったが、大陸会議は1776年10月に2,595ドルを支払った。
※この「連隊の立ち上げ」の解説は、「モーゼス・ヘイズン」の解説の一部です。
「連隊の立ち上げ」を含む「モーゼス・ヘイズン」の記事については、「モーゼス・ヘイズン」の概要を参照ください。
- 連隊の立ち上げのページへのリンク