通州事件までの諸事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:53 UTC 版)
1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発し宋哲元の第29軍と日本軍が衝突した。まもなく停戦協定が結ばれた。7月10日に日本軍将校斥候へ迫撃砲弾が撃ち込まれた。7月11日、近衛内閣は現地解決、不拡大方針を閣議決定する一方、「北支派兵に関する政府声明」を発表して、事件を「北支事変」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、大日本帝国はこれに対して自衛権を行使するために派兵(増員)するとした。7月13日、北京郊外の豊台付近で第29軍第38帥によって日本軍トラックが爆破され4名が殺害された(大紅門事件)。7月16日には両軍の間で砲撃が行われた。7月17日には宋哲元は日本との和平を決意し、翌18日には支那駐屯軍司令官香月中将と会見し、宋は遺憾の意を表明した。19日には冀察政務委員会と日本とで停戦協定が締結された。しかし、国民政府外交部はこの協定の「地方的解決は認めない」と通告した。日本側も参謀本部で硬軟派で意見が対立し、対中外交は機能不全となっていた。他方で7月18日、日本軍機が銃撃され、7月19日には宛平県城より日本軍への砲撃が行われ、7月20日にも再び宛平県城より日本軍への砲撃が行われたため、日本軍も砲撃を行った。7月20日、日本は3個師団動員と北支派遣を決定し、上奏された。7月25日に北京より東に72kmの廊坊での電話通信線補修に派遣されていた支那駐屯軍一個中隊を中国軍29軍第38師が攻撃し、日本軍77聯隊は応戦した(廊坊事件)。続く7月26日にも北平の広安門で日中両軍が衝突した(広安門事件)。 7月26日深夜、通州新南門外の宝通寺に駐屯していた国民革命軍第29軍の独立第39旅(旅長:阮玄武)の隷下にある717団1営(営長:傳鴻恩)に対し、日本側は武装解除し北平に向け退去するよう求める通告を行った。翌27日午前3時に至っても傳鴻恩からの回答はなく、兵営には抗戦の機運が横溢し兵馬の騒めきもひとしおであるとの密偵の報告があったため、同日黎明4時、支那駐屯歩兵第二連隊は攻撃を開始し、午前11時までに傳鴻恩部隊の掃蕩を完了した。 7月27日、日本は不拡大方針を破棄し、第5、6、10師団を基幹とする約20万9000人の動員を閣議決定した。 7月28日、南苑は陥落し、7月30日までに日本軍は北京(北平)・天津地域を占領した(平津作戦)。
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