解決までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:53 UTC 版)
この危機が起こる前まで相手がいかに不安で脅威を感じていたかをフルシチョフ、ケネディの両人とも全く分かっていなかった。相手がどんな行動に出て、自分の行動がどんな結果を招くのか、しっかり考えてはいなかった。その挙句に二人とも予期していなかった対立に訳も分からず迷い込んでしまったのである。しかし核戦争の底知れない深みを垣間見ることになった二人は見事に回避した。最初は怒りを覚えた二人であったが、それが収まるとそれまで如何に誤解していたかお互いに気づくことになった。そこで相互理解を深めようとしながら事態が制御不能にならないように努めたことは英雄的であった。ケネディは月曜日に封鎖を発表しながら実際に開始したのは水曜日で、臨検は金曜日で、それも慎重な形で行った。実力行使せず、報復のため実力に訴えるしか選択肢がない状況にフルシチョフを追い込むことは一切しなかった。どちらも国内のタカ派を相手にせねばならない状況で取り返しがつかない行動を取らないように注意していた。やがて危機が頂点に達した時に意を決して瀬戸際から退いたのである。 実際にフルシチョフは「正直なところ、アメリカが戦争を開始しても、当時の我々にはアメリカに然るべき攻撃を加えられるだけの用意はなかった。とすると、我々はヨーロッパで戦争を始めることを余儀なくされただろう。そうなったら無論、第三次世界大戦が始まっていたに違いない」と後に回想している。その一方、フルシチョフとしては、キューバに対するアメリカの干渉を阻止したことで満足したとも考えられているが、実際にはケネディがトルコからの核ミサイルの撤去を行うことを約束したことがフルシチョフを満足させ、土壇場での両国間の合意を決定づけた。 ケネディの側近だったセオドア・C・ソレンセンの著書「ケネディの道」では、キューバ危機の米ソ対決が沈静化したのは、ロバート・ケネディ司法長官とアナトリー・ドブルイニン駐米大使が、深夜のワシントン市内の公園で密かに会って話し合った時であったことが記されている。その会談で、実際にどのようなやり取りがなされたかは、具体的には書かれていない。しかし、その後1970年に発行されたフルシチョフの回顧録の中で、フルシチョフは書いている。ドブルイニンの報告は10月28日の幹部会でケネディ書簡を検討している時に届いていた。そしてロバート・ケネディからの伝言の内容も詳しく書かれていて、トルコのミサイル撤去の件についての意図と背景にある軍部と大統領との確執がフルシチョフにも伝わったことは明らかである。そして「私はケネディはまだ若い大統領で軍部に対する制御力を失う可能性を我々は恐れていた。彼はそれを今、自身で認めたのだ。…合衆国国内で大統領対軍部の緊迫した関係が確かに危機状態に達していることが我々には感じられた」 ここからは最後にケネディ書簡で合意できるとの判断で、すぐにモスクワ放送で伝えたことを見ると、ドブルイニンの報告はフルシチョフの判断に大きく影響を与えたと考える方が自然である。 ABCネットワークの記者、ジョン・A・スカーリ(英語版) の仲介で、ソ連大使館員でKGB担当者でもあるアルクサンドル・ファーミン(フェクリソフ)はソ連がミサイルを撤去する代わりに、封鎖を解除して、今後キューバへ侵攻しないとの取り決めを行うことにケネディ政権は関心があるだろうかと打診した話は、スカーリが「政府内の最高首脳レベル」(ラスク国務長官)から承認を受けてアメリカはその提案に関心があると伝えるように言われたとファーミン(フェクリソフ)に伝えたが、この動きはフルシチョフとの直接的な繋がりはない。 スカーリは自分が危機解決のための仲介役を務めているつもりだったが、ソ連側は全くそのようには見ていなかったのである。しかもこれがソ連側からの提案で動いたが、ファーミン(フェクリソフ)はアメリカからの提案として本国に電報を送ろうとしたが、幹部会への送付はドブルイニン大使の許可が必要で結局大使は許可を与えなかった。この種の交渉にあたる権限が大使に与えられていないことがその理由であった。そしてドブルイニン大使は別にロバート・ケネディとの折衝があって、その報告をクレムリンに送ったのである。
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