観世家の養子にとは? わかりやすく解説

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観世家の養子に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 08:49 UTC 版)

観世重賢」の記事における「観世家の養子に」の解説

江戸時代幕府仕え能役者たちは観世金春宝生金剛喜多の五座に編成され世襲大夫がこれを率いていた。 重賢はその五座の一つ宝生座大夫宝生重友の次男として生を受けた。父・重友は若年より活躍し56歳秘曲とされる関寺小町」を舞い将軍徳川家綱から褒美を受けるなど、宝生座地位の向上に果たすところが大き人物であった。兄に次代宝生大夫となった九郎友春、弟に松尾芭蕉門下俳人宝生服部沾圃がある。 その頃、五座の筆頭である観世座11大夫観世重清は弟の十郎兵衛養子としていたが、1663年寛文3年)に先立たれていた。嗣子定め必要に迫られた重清は、翌年宝生家から7歳三郎次郎(重賢)を新たに養子として迎えることとなった他家出身である三郎次郎後継者選ばれ理由としては、実父・重友がかつて10観世大夫重成に芸の指導受けていた縁などが推測されている。 1671年寛文11年)、観世家の嗣子として、江戸城での表能に初め出勤する。翌1672年寛文12年)、京都七本で重清が開催した勧進能では、4日間の日程のうち初日4日めで「翁」(および脇能)を勤めるなど、15歳ながら重い役割担った以後江戸城中での能に次期大夫としてたびたび出演するなど、順調な活動続ける。 1680年延宝8年)、徳川綱吉将軍宣下祝賀能では、病気出勤しなかった養父・重清に代わり初日に「翁」「高砂」、2日目に「花月」、3日目に「忠度」、4日目に「桜川」を舞うが、重賢にとってはこれが能役者としてもっとも花やか瞬間だったとも評される同時期の3世喜多七大夫宗能の書状を見ると、この頃にはすでに重賢が、事実上観世家の代表者として認識されていたらしい

※この「観世家の養子に」の解説は、「観世重賢」の解説の一部です。
「観世家の養子に」を含む「観世重賢」の記事については、「観世重賢」の概要を参照ください。

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