親柱/橋碑/欄干とは? わかりやすく解説

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親柱/橋碑/欄干

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 02:12 UTC 版)

相生橋」の記事における「親柱/橋碑/欄干」の解説

親柱3つとも現存している。 初代親柱右側)と旧相生橋碑(左側)。 2代目親柱。 現親柱2012年)。 初代原爆ドーム横の初代木橋けられた場所に初代親柱と旧相生橋碑が建立されている。初代親柱1878年架橋の際に建立初代木橋ここから慈仙寺鼻に向かってまっすぐけられた。旧相生橋碑は木橋が完全撤去された1940年建立。旧相生橋碑のみが被爆遺構であり、一時紛失したが見つかり現在位置戻された。 2代中島町慈仙寺鼻にある親柱。これは1945年被爆後復旧工事の際に連絡橋親柱位置再建されたものである1983年現橋時に現在地移設。なお、1932年竣工および被爆当時併用および連絡橋親柱は更にこの上石柱積まれているような形状だった。 3代(現在):1983年現橋架け替え時に設置橋名灘尾弘吉揮毫半球部分原爆ドームモチーフに「平和を支え市民の力」を、手摺部分は「人々連帯」をイメージしてデザインされた。 原爆ドーム横の現親柱下流側には「橋銘板碑」が置かれている。これは被爆後補修された2代目の橋橋名板を、現橋架け替えの際に再利用したものである。橋の歴史刻んだ説明板設置されている更にその南にはこの近所(旧・猿楽町現在の紙屋町2丁目)で生まれた鈴木三重吉の「鈴木三重吉文学碑」が置かれている。下流側赤い鳥表紙模し上流側三重直筆の詩が刻まれている。 橋銘板碑。 鈴木三重吉文学碑相生橋上からの元安川下流原爆ドーム左下初代親柱と旧相生橋碑が見える。 連絡橋欄干原爆ドーム

※この「親柱/橋碑/欄干」の解説は、「相生橋」の解説の一部です。
「親柱/橋碑/欄干」を含む「相生橋」の記事については、「相生橋」の概要を参照ください。

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