表裏比興の者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:32 UTC 版)
「表裏比興の者」と言われていた。これは天正14年(1586年)の上杉景勝の上洛を秀吉が労う内容の文書で、同日付で豊臣家奉行の石田三成・増田長盛が景勝へ宛てている添書条に記されてもいる。これは家康上洛に際して家康と敵対していた昌幸の扱いが問題となり、家康の真田攻めで景勝が昌幸を後援することを禁じた際の表現で「比興」は現在では「卑怯」の当て字で用いられる言葉だが「くわせもの」あるいは「老獪」といった意味で使われ、武将としては褒め言葉である。これは地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩きながら勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と場合によっては大勢力との衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない手強さ(武勇)を合わせて評したものである。実際、昌幸を「比興の者」と評したと目される三成は、真田家と縁を結んでいる。
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