そが‐の‐いるか【蘇我入鹿】
蘇我入鹿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/05 22:44 UTC 版)
蘇我 入鹿(そが の いるか)は、飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の最上位有力者であったが、乙巳の変において討たれる。
注釈
- ^ 箭田皇女[1]あるいは箭田皇子[2]を産んだとされるが、所拠不明。
- ^ ただし、上宮王家がこの時に全員死亡したとする説には疑問を持つ見方もある。例えば、『聖徳太子伝補闕記』において山背大兄王とともに自殺したとされる片岳女王(片岡女王)について、東野治之は『法隆寺資財帳』に見える金泥銅灌頂幡を寄進した「片岡御祖命」と同一人物とし、女王が一族の滅亡後も生き延びて法隆寺の再建に立ち会った可能性があるとしている[4]。
- ^ 入鹿と同じく唐から帰国した留学生や学問僧に最新の統治技術を学んだ中大兄皇子は、有力王族が権力を掌握し、それを権臣や有力視族の代表による合議体が補佐するという新羅の方式を理想としていた[3]。
出典
蘇我入鹿(そがのいるか)
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「日出処の天子」の記事における「蘇我入鹿(そがのいるか)」の解説
布都姫の忘れ形見。山背大兄とは幼少時から気心の知れた仲であるが、舂米を巡っての恋敵でもあった人物として描かれている。
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