阿野廉子
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阿野 廉子(あの れんし/かどこ[注釈 1])は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての女房・後宮・女院。後醍醐天皇の側室・寵姫にして[1]、祥子内親王(日本最後の伊勢神宮斎宮)、北朝の皇太子恒良親王、征夷大将軍成良親王、そして義良親王すなわち後村上天皇らの母である。従三位に叙されて三位内侍(さんみのないし)[注釈 2]、また院号宣下を受けて新待賢門院(しんたいけんもんいん)と呼ばれた。
注釈
- ^ 阿野家の通字である廉(かど)に照らせば、訓読みでは「あの かどこ」と呼ばれたと推測される。なお、実家は阿野家であるが、洞院家の養女となったため、当時としては洞院 廉子(とういん れんし/かどこ)であるとも考えられるが、後世の書籍でその様に呼ばれることはまずない。
- ^ 廉子は軍記物語『太平記』では「三位局」(さんみのつぼね)と称されるが、史実としては他の側室の二条藤子らも従三位を受けているため「三位局」では特定できない(藤子は『太平記』では存在自体がなかったことにされている)。『増鏡』では「三位宣旨」である藤子に対し、廉子は「三位内侍」と呼ばれている。
- ^ 廉子と同じく後に後醍醐天皇の側室ともなり懐良親王をもうける。
- ^ 後に後醍醐天皇第一皇子尊良親王の妻。
- ^ 『女院次第』による。元亨元年(1321年)とする文献もあるが、その史料出典は明らかでない。
出典
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