自由主義と反動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 07:15 UTC 版)
「シチリア・ブルボン朝」の記事における「自由主義と反動」の解説
ボナパルト朝統治下で誕生したカルボネリーアは各階層に勢力を広げ、その勢いは侮れないものであった。1820年にカルボネリーアはナポリで大規模な反乱を起こし、フェルディナンド1世は自由主義的な憲法の発布を余儀なくされる。革命の余波はシチリアにも及んだが、シチリアの場合は体制の変換よりもナポリからの独立を求めていた。シチリアの分離独立を認めないナポリ政府軍は、革命政府の内部分裂を利用してこれを制圧する。そのナポリ政府もオーストリアによって潰され、自由主義の動きは圧殺される。反動政治は1825年に新たに即位したフランチェスコ1世の下で強化される。カルボネリーアはやがて衰退し、ジュゼッペ・マッツィーニの青年イタリアに取って代わられる。 1830年に即位したフェルディナンド2世も反動政治を継続した。1848年にフランスで勃発した2月革命はヨーロッパ中に伝播するが、イタリアではそれに先立って革命運動が勃発した。シチリアで反乱が起き、その動きがナポリにも及んだのである。これに驚いたフェルディナンド2世は内閣を改造させて、自由主義的な憲法を発布した。一方のシチリアでは、ルッジェーロ・セッティモを首相とする臨時政府の樹立を宣言した。臨時政府はシチリアの完全独立を目指していた。 これらの動きに対し、フェルディナンド2世はクーデターを起こして自由主義者を閣内から追放するとともに、自由主義的な新聞を廃止して引き締めを図った。1849年にはシチリア臨時政府を潰して反動政治を完全に復活させた。一見、成功したかに見えるフェルディナンド2世の政策であったが、時代の流れを止めることは出来なかった。
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