脚本家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/05 13:37 UTC 版)
「フランシス・マリオン (脚本家)」の記事における「脚本家の時代」の解説
1915年にロサンゼルスへ移り、映画界入りする。助手や女優をしながら、脚本家としてデビュー。すでにメアリー・ピックフォードとは新聞記者時代からの旧知の仲で、彼女のお抱え脚本家としてユナイテッド・アーティスツ社などで脚本を量産しはじめる。ピックフォードとは友人としても芸術家としても、終生尊敬しあう仲であった。早川雪洲やその妻の青木鶴子とも交流があった 1920年代、彼女は3番目の夫の出演作のために数本の映画の監督もしながらも、脚本家としての地位を着々と固めていく。1927年、新人だったグレタ・ガルボのためにレフ・トルストイ原作『アンナ・カレニナ』の脚色を手がけるのをきっかけにメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの専属脚本家の地位につく。彼女は、1920年代末までに当時の代表的なスターであるピックフォード、マリオン・デイヴィス(監督も引き受けた)、ロナルド・コールマン、ルドルフ・ヴァレンティノらのために脚本を提供し、この時すでに全米一ギャラの高い脚本家となった。 1930年、マリオンの最初のトーキー映画に、ユージン・オニール原作の『アンナ・クリスティ』を脚本化する。この作品はガルボ初のトーキーであると共に、60歳を越えて引退を考えたマリー・ドレスラーを見事に復帰させる。同じ年、マリオン脚本ドレスラー主演の『惨劇の波止場』で第4回アカデミー賞主演女優賞を獲得する。この作品に共演していたウォーレス・ビアリー主演の1930年『ビッグ・ハウス』と1931年『チャンプ』の両作品において脚本部門でアカデミー賞を自ら受賞した。1931年に彼女は4度目の結婚をするが1年で離婚。 1936年、急逝したメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの制作部長アーヴィング・タルバーグの後を引き継ぎ、当時世界最高の映画会社を支え続けた。 彼女の関わった脚本・原作・翻案作品には、ドラマ、コメディ、ロマンス、西部劇、冒険物、ミュージカル、犯罪物、家族向け、歴史物、ミステリー、戦争物、スポーツ物、伝記、サスペンスなど当時考えられていたほとんどのジャンルを網羅していた。
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