総選挙に出馬するも落選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 18:45 UTC 版)
「アーサー・コナン・ドイル」の記事における「総選挙に出馬するも落選」の解説
ドイルはボーア戦争以前から政界進出への意欲をマスコミ紙面で表明していた。 そのため1900年10月の解散総選挙(英語版)を前にして、与党である保守党・自由統一党も、野党である自由党も著名な作家であるドイルを自党の候補に擁立しようと誘いをかけた。ドイルは、自由統一党からの出馬を決めた。同党はジョゼフ・チェンバレンやデヴォンシャー公爵らアイルランド自治に反対する自由党議員が自由党から離党して作った政党であり、この頃には保守党と連立して与党を形成し、戦争支持を表明していた。 自由統一党執行部は与党候補の当選が安定している選挙区を用意すると言ってくれていたが、ドイルはそれを断って「スコットランド急進派の砦」と呼ばれ、与党候補の当選が困難と見られていたエディンバラ・セントラル選挙区(英語版)から出馬した。 同選挙区の自由党候補は出版業者ジョージ・マッケンジー・ブラウン(英語版)だったが、ドイルは自分と彼の間に社会問題や地元選挙区の関心事項について相違はないことを強調することで争点をボーア戦争の是非のみに持ち込み、そのうえで「南アフリカの明るい未来の見通し」や「大きな流れの真ん中で馬を変えることの危険性」を説き、与党支持を訴えた。 しかし、選挙日前日に福音派信者がドイルのことを「教皇派共謀者」「イエズス会密使」「プロテスタント信仰破壊者」と誹謗中傷するプラカードを持って行進し、これによってドイルは有権者から狂信的カトリックのように誤解され、選挙の流れが不利になったという(少なくともドイル本人はそう思っていた)。 選挙の結果はブラウンの3,028票に対してドイルは2,459票に留まり、落選であった。しかし前回選挙と比べると自由党候補の票を1,500票も減じた格好だったため、党は一定の成果があったと評価したようである。ちなみに総選挙全体の結果は与党の圧勝であった。
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