第10回有馬記念
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第10回有馬記念(だい10かいありまきねん、芝コース、外回り、2600メートル)は、1965年12月26日に中山競馬場で施行された競馬の重賞競走である。
- ^ 宝塚記念は八大競走に含まれないため、カウントされない。
- ^ ほかに第22回(1977年)の有馬記念も8頭立て。なお有馬記念出走馬最少記録は第16回(1971年)の6頭立て(有馬記念の歴史参照)。
- ^ “競走成績 第10回 有馬記念”. データファイル. 日本中央競馬会. 2012年1月23日閲覧。
- ^ 当時の天皇賞は勝ち抜け制だったため、春秋両方を勝つことは不可能だった。
- ^ シンザン以前にはリユウフオーレルが達成
- ^ 後にイナリワンも達成、2023年現在まで乗り替わりでの達成はこの2頭のみ
- ^ 皐月賞・東京優駿・天皇賞(秋)
- ^ 菊花賞
- ^ 宝塚記念
- ^ グレード制導入後は、2024年までにテイエムオペラオー・オルフェーヴル・ジェンティルドンナ・キタサンブラックの4頭が達成している
- ^ シンザン以外でGⅠ級競走に3度以上出走して全勝している日本馬には、クリフジ・トキノミノル等が挙げられる
- ^ 尾形藤吉に次ぐ
- ^ シンザンがクラシック参戦した年(1964年)は、皐月賞が東京競馬場で開催されたため、シンザンは中山競馬場を走った経験がなかった。
- 1 第10回有馬記念とは
- 2 第10回有馬記念の概要
- 3 レース施行時の状況
- 4 出走馬と枠順
- 5 脚注
第10回有馬記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:18 UTC 版)
天皇賞(秋)の後、ミハルカス陣営は第10回有馬記念への出走を決めた。天皇賞終了時は翌春の戴冠に向けての充電に当てたかったため、参加の予定はなく加賀はフリーであった。その為、有馬記念の前週にシンザンの主戦騎手であった栗田勝がシンザンの管理方針を巡る武田との対立から調整ルームを抜け出して酒をあおり、急性の疾患(急性胃腸カタルまたは急性アルコール中毒)を起こして病院に搬送されるという不祥事を起こした際、シンザンの管理調教師である武田文吾は栗田をシンザンから降板させることを決定し、加賀の師匠である阿部正太郎を介して加賀に代役を依頼する事となった。ところが、この話を巡ってミハルカスの管理調教師である小西と阿部との間に対立が生じ、小西が休養予定を変更しミハルカス有馬出走を決め、加賀もシンザン騎乗よりもシンザン打倒を選んだことで話は頓挫。結局、シンザンには栗田の兄弟子である松本善登が騎乗する事となった。 有馬記念当日は内側の馬場状態が悪く、加賀はミハルカスを外側に誘導して逃げた。第4コーナーで加賀は「直線も中途半端じゃない外に出よう」と決断し、「ほとんど斜行と言ってもいいくらいの角度」でミハルカスを外側へ誘導した。ここでシンザンがミハルカスのさらに外へ進路をとりつつ加速した。加賀にはシンザンがミハルカスよりも内側を通るという予測があり、それによって馬場状態の悪い部分を走ったシンザンの体力が幾分か消耗することを期待していたが、シンザンの動きは予想外のものであったと振り返っている。この時、観客席からは2頭が視界から消えたように見えた。とくにシンザンについてはラチ沿いの溝に落ちたのではないかという観測が生まれ、観客は騒然となった。シンザンの姿はテレビカメラでもとらえられなくなり、「消えた」と実況された。しかし加賀によると実際にはこの時、ミハルカスの外にはおよそ2頭分のスペースが残されており、シンザンが溝に落下することは絶対にあり得なかったという。直線でミハルカスはシンザンに交わされ2着に敗れた。
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