第1次新羅征討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 05:35 UTC 版)
1度目は推古8年(西暦600年)2月で、任那を救援するために新羅へ出兵した。蘇我氏の一族である境部摩理勢(境部臣)が征新羅大将軍に任命され、副将軍は穂積祖足(穂積臣)であった。五つの城が攻略され、新羅は降伏した。さらに、多多羅(たたら)、素奈羅(すなら)、弗知鬼(ほちくい)、委陀(わだ)、南迦羅(ありひしのから)、阿羅々(あらら)の6つの城が攻略された。難波吉士神(なにわのきしみわ)を新羅に派遣し、また難波吉士木蓮子(なにわのきしいたび)を任那に派遣し、両国が倭国に朝貢を約させた。しかし、倭国の軍が帰国したのち、新羅はまた任那へ侵攻した。 翌推古9年(601年)3月には、大伴連囓(おほとものむらじくひ)を高麗(こま)に派遣し、坂本臣糠手(さかもとのおみあらて)を百済へ派遣し、任那救援を命じた。 推古9年(601年)9月8日、新羅の間諜(うかみ。スパイのこと)である迦摩多(かまた)が対馬に上陸したところ、捕えられて、上野国に送還された11月5日、新羅への第二次征討計画が図られる。
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