第二次連合政府
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1961年、中立派のプーマ、右派のブン・ウム、左派のスパーヌウォンの3殿下の会談が続けられ、翌年1月、ジュネーヴにおいて連合政権樹立に関する合意文書に署名。6月12日、連合政府組閣に関する「ジャール平原協定」に署名。1962年6月23日、プーマを首相とした第2次連合政府が樹立され、国防相と退役軍人・社会活動相を兼務した。 しかし、1963年には中立派の軍人・政治家の暗殺事件が続発し、疑心暗鬼から中立派は、中立左派と中立右派に分裂したため、プーマはその基盤を失った。また、パテート・ラーオ閣僚はジャール平原に引き揚げ、連合政府は事実上崩壊した。1964年、ベトナムでトンキン湾事件が起こると、ラオスもベトナム戦争に巻き込まれてゆく。以降はアメリカに支援された右派王国軍と、ベトミンに支援されたパテート・ラーオと中立愛国派(中立左派)という対立図式で内戦が展開された。王国政府はやがて戦意を喪失し、内部対立が顕著化するとともに、パテート・ラーオがラオス全土を制圧してゆく。 1970年3月22日、プーマはスパーヌウォンの書簡を届けに来た特使と会見し、パテート・ラーオ側との接触を開始した。
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