第二次世界大戦から朝鮮戦争まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 10:44 UTC 版)
「岩崎與八郎」の記事における「第二次世界大戦から朝鮮戦争まで」の解説
第二次世界大戦に際しては、日本の影響下にあった朝鮮総督府鉄道・南満州鉄道・華北交通・華中鉄道などへも枕木の販路を拡大した。このころ三井物産を通じて大陸へ枕木を販売していたが、枕木1本を1円で購入し、40-50銭程度で輸送して、販売価格は12円であったため、5万本の枕木を積んだ1隻の船で50万円儲かるという荒稼ぎぶりで、本人もこんなに儲けてよいのかと不安になったという。またこのことを指して、戦時中の国策で成り上がったと指弾するものもいたが、本人はそれを特に気にせず、本当のことだから隠しはしないという態度であった。 他に、金解禁に合わせて喜入村や頴娃村で金鉱山の経営を行った。しかしこれは戦争突入により輸出が途絶えたため閉鎖となっている。さらに鹿児島造船を設立して木造船の建造を行ったり、吉見鉄工所を設立して航空機の部品を製造したりと、戦争に際しての協力を行った。 第二次世界大戦が終結して連合軍が進駐してくると、岩崎は戦争協力者として連行され取調べを受けた。その姓から三菱グループ創業家との関係を疑われたが、無関係であると釈明している。その後、物資不足の中で肉や魚などの差し入れを盛んに行って進駐軍との関係を構築した。朝鮮戦争が発生すると、朝鮮半島での鉄道復旧に資材が必要となり、たまたま岩崎が関係を構築した人物がその資材担当であったことから、枕木の大量発注を受けて大きな利益を上げることができた。特に、当時はまだ奄美大島がアメリカの統治下にあって日本政府の管轄が及ばなかったので、奄美大島に山林を有してそこから枕木用木材を出荷できる岩崎は、自分がもっとも儲けることのできる取引形態を当局の監視外で設定することができたという。 1949年(昭和24年)に、当時民主自由党の大野伴睦の推薦で翌年の第2回参議院議員通常選挙に出馬するという話がもちあがった。しかし経営に専念することが得策であると判断し、これを辞退することにした。それでも岩崎が出馬するとの噂は消えなかったため、地元の南日本新聞にこれを明確に否定する声明文を掲載している。
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