福岡のフジツボ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 08:06 UTC 版)
兄の藤壺勇が横浜市に移ると、福岡の整備工場は弟の藤壺勝が継ぐことになった。福岡では整備業中心で、2輪車や3輪車の新車、中古車の販売も行っていた。勝は戦前からオートバイや軍用車両などの整備士だったので、昭和20年代後半から古い国産、輸入自動車の整備や板金などの依頼を受けていた。昭和40年代になると、スズキのフロンテや、ホンダのS800、N360のボディを外してジムカーナの競技車の製作などもしていた。車重が軽かったために運動性能が良く、自動車学校の練習コースや、飛行場の跡地などで行われていた当時のジムカーナ競技に出場し、好成績を残した。このころ福岡市博多区の整備工場は、道路拡張とともに福岡県糟屋郡に移転した。
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