砥石城の落城
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『高白斎記』によれば、天文20年(1551年)5月26日には武田家臣・信濃先方衆の真田幸綱(幸隆)により砥石城は攻略される。 真田幸綱は信濃小県郡真田郷(上田市)を本拠とする国衆で、『甲陽軍鑑』によれば、海野平合戦において海野棟綱とともに上野へ亡命すると、甲斐において晴信への家督交代後に出仕し、天文16年(1547年)の山内上杉氏との小田井原の戦いにおいて活躍している。『高白斎記』によれば、天文19年の砥石城攻めでは、幸綱は村上方の埴科郡の国衆である清野氏・寺尾氏に対する調略を行っていたという。 『高白斎記』では天文20年の幸綱による砥石城攻略を「砥石ノ城真田乗取」と記しており、調略が用いられたと考えられている。後世の軍記物によれば真田一族・矢沢氏が幸綱に内通していたとされ、幸綱の弟にあたる矢沢綱頼が内通者であったとも考えられている。天文22年1月に、晴信は砥石城に在城する小山田虎満に対して戸石再興のために出陣すると伝えており、幸綱の「乗取」に際しては修築を必要とする火災など城郭に対する被害もあったと考えられている。 『高白斎記』によれば、晴信は同年6月1日に甲斐・若神子(山梨県北杜市須玉町若神子)まで出陣しているが、この時の本隊の動向は不明。7月2日に晴信は再び出陣している。これに対して佐久郡の国衆・岩尾大井氏の岩尾城主・岩尾行頼(弾正忠)は若神子まで出仕して晴信に降伏している。晴信は砥石城落城後に佐久郡の城郭を整備し、内山城に小山田虎満を配置して支配拠点とした。 天文22年(1553年)1月に晴信は「戸石再興」のために戸石方面に出陣し、この時点で砥石城には内山城を離れた小山田虎満が在城している。同年3月に晴信は深志城(松本城、長野県松本市)に終結すると小笠原氏の諸城を落とし、村上方の国衆も武田方に臣従した。村上義清は同年4月6日に本拠の葛尾城を放棄して越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り亡命した。義清、高梨政頼等の信濃北東部の国人が越後の長尾景虎を頼ったことから、武田・長尾(上杉)間で信濃北部の川中島四郡をめぐる川中島の戦いへと発展していく。
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