砥石城の落城とは? わかりやすく解説

砥石城の落城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 14:34 UTC 版)

砥石崩れ」の記事における「砥石城の落城」の解説

高白斎記によれば天文20年1551年5月26日には武田家臣・信濃先方衆真田幸綱(幸隆)により砥石城攻略される。 真田幸綱信濃小県郡真田郷上田市)を本拠とする国衆で、『甲陽軍鑑によれば海野平合戦において海野棟綱とともに上野亡命すると、甲斐において晴信への家督交代後に出仕し天文16年1547年)の山内上杉氏との小田井原の戦いにおいて活躍している。『高白斎記によれば天文19年砥石城攻めでは、幸綱は村上方の埴科郡国衆である清野氏・寺尾氏に対す調略行っていたという。 『高白斎記』では天文20年の幸綱による砥石城攻略を「砥石ノ城真田乗取」と記しており、調略用いられたと考えられている。後世軍記物によれば真田一族矢沢氏が幸綱に内通していたとされ、幸綱の弟にあたる矢沢綱頼内通者であったとも考えられている。天文22年1月に、晴信は砥石城に在城する小山田虎満に対して戸石再興のために出陣すると伝えており、幸綱の「乗取」に際して修築を必要とする火災など城郭対す被害もあったと考えられている。 『高白斎記によれば、晴信は同年6月1日甲斐若神子山梨県北杜市須玉町若神子)まで出陣しているが、この時の本隊動向不明7月2日に晴信は再び出陣している。これに対して佐久郡国衆岩尾大井氏岩尾城主・岩尾行頼(弾正忠)は若神子まで出仕して晴信に降伏している。晴信は砥石城落城後に佐久郡城郭整備し内山城小山田虎満配置して支配拠点とした。 天文22年1553年1月に晴信は「戸石再興」のために戸石方面出陣し、この時点砥石城には内山城離れた小山田虎満が在城している。同年3月に晴信は深志城松本城長野県松本市)に終結する小笠原氏諸城落とし村上方の国衆武田方に臣従した。村上義清同年4月6日本拠葛尾城放棄して越後国長尾景虎上杉謙信)を頼り亡命した。義清、高梨政頼等の信濃北東部国人越後長尾景虎頼ったことから、武田長尾上杉)間で信濃北部川中島四郡をめぐる川中島の戦いへと発展していく。

※この「砥石城の落城」の解説は、「砥石崩れ」の解説の一部です。
「砥石城の落城」を含む「砥石崩れ」の記事については、「砥石崩れ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「砥石城の落城」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「砥石城の落城」の関連用語

1
10% |||||

砥石城の落城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



砥石城の落城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの砥石崩れ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS