まつもと‐じょう〔‐ジャウ〕【松本城】
松本城
名称: | 松本城 |
ふりがな: | まつもとじょう |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 長野県 |
市区町村: | 松本市丸の内、大手2丁目 |
管理団体: | 松本市(昭6・1・28) |
指定年月日: | 1930.11.19(昭和5.11.19) |
指定基準: | 史2 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | 平成19.02.06 |
解説文: | 松本市ノ北部ニ位スル平城ニシテ天正年間石川康昌ノ経営ニ係リ其ノ子光長城壘ヲ修築シテ現今ノ規模ヲ成セリト傳フ後小笠原、戸田、水野ノ諸氏在城シ享保十年戸田光慈入城シテ子孫相継キ明治維新ニ至ル 城構ハ本丸、二ノ丸、三ノ丸ヲ備ヘ本丸ハ周囲ニ城門ヲ有スル石壁竝城濠ヲ繞ラシ西部ニ五層ノ天守閣三層ノ小天守及月見櫓ヲ有シ東南ニ黒門阯ヲ残セリ二ノ丸ハ本丸ノ東及南ニ連リ外濠ノ見ルヘキモノアリテ三ノ丸ハ全ク市街地トナリタルモ外濠ハ溝渠トナリテ諸所ニ遺存セリ 松本城は戦国時代から幕末まで継続して使われた信州を代表する近世城郭である。初め、深志城と呼ばれ、甲斐の武田氏が守護小笠原氏を追放し、信濃支配の拠点としたことから重要性を増すこととなった。武田氏滅亡後は北から上杉氏が、南から徳川氏が信濃支配をめざすが、徳川氏の支援を得た小笠原氏が奪取し、城下町の経営を進めた。天正18年(1590)の家康の関東移封に伴い、小笠原氏に替わって豊臣系大名である石川数正が入部し、数正・康長父子により城と城下町の建設が大きく進展した。関ヶ原の戦後は、小笠原・戸田・松平・堀田・水野・戸田氏とめまぐるしく藩主が交代し、明治維新を迎える。外周に総堀をめぐらし、内側に三の丸を置く。その北寄りに外堀があり、内側が二の丸、さらにその内側の東・南・西に内堀を掘り、本丸を置く。三の丸南側の総堀のすぐ南に女鳥羽川が総堀と並行して東から西へ流れ二重の堀としての役割を果たしていた。本丸の西南隅には国宝松本城天守がある。松本市教育委員会は平成11年に「松本城およびその周辺整備計画」を策定し、史跡整備を進めている。追加指定地は西総堀土塁の一部であり、開発計画に伴い、市教育委員会が発掘調査を実施した。その結果、石川氏による築城時のものであると考えられるに至ったことから、追加指定を行い、保護の万全を期そうとするものである。 |
松本城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 08:40 UTC 版)
松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡[注 1]筑摩野松本)にある日本の城。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。
注釈
- ^ 古来「つかま」と呼ばれていたが、明治時代に「ちくま」に変更された。しかし、筑摩神社 (松本市)のように「つかま」の名も残る(『角川日本地名大辞典 20 長野県』)。
- ^ 天守が傾いている様子を写した写真は、歪曲収差によるものと考えられている。(丸山哲治 & 後藤芳孝 2022)
- ^ 元々この地は「深瀬」「深志」と呼ばれる沼地で、城の始まりは沼の畔の館である。
- ^ ただし、この門を所有している家が所蔵する書状によると、六九町にあった郡役所の門を移築したことになっている。
- ^ 同じ「烏城」で「うじょう」と読むのは、岡山県の岡山城である。
- ^ 現在の千歳橋付近に存在した。松本城検定クイズ 国宝松本城を世界遺産に (PDF)
出典
- ^ a b c 【まちの記憶】松本城かいわい(長野県松本市)天守守る市民 情熱と誇り/街のシンボル 乗り越えた取り壊しや倒壊の危機『朝日新聞』夕刊2022年8月1日3面(2022年8月13日閲覧)
- ^ “筑摩県博覧会”. 日本銀行. 2023年2月27日閲覧。
- ^ 松本市公式サイト「松本城の歴史」
- ^ 国宝松本城太鼓門特別公開
- ^ 犯罪です 国宝・松本城で落書き 廊下に「ともこ」[リンク切れ]スポニチアネックス
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- ^ 宮上茂隆「松本城丸岡城天守の建造年代 : 現存最古の天守遺構は松本城第1次天守(乾小天守)」『学術講演梗概集. F, 都市計画, 建築経済・住宅問題, 建築歴史・意匠』 日本建築学会編、日本建築学会、1992年。
- ^ 河村淳・梶元成・松本吉雄ら著『松本城』昭和6年(1931年)
- ^ 田邊泰『松本城天守閣』昭和13年(1938年)
- ^ 村田修三監修『ビジュアルワイド 日本名城百選』小学館、2008年
- ^ 金井圓『松本城 -その歴史と見どころ-』名著出版、1984年、p.113、ISBN 4626011284。)
- ^ 西ヶ谷恭弘・香川元太郎『ビッグマンスペシャル 日本の城 [戦国〜江戸]編 完成された城郭の構造』世界文化社、1997年
- ^ 史跡追加指定の告示は平成19年2月6日文部科学省告示第12号
- ^ 青木教司「史跡松本城総堀土塁の保存について」(講演会要旨)「国宝松本城を世界遺産に」 推進実行委員会平成18年度 総会資料
- ^ 『信濃毎日新聞』2012年7月11日2面
- ^ 史跡追加指定の告示は平成25年3月27日文部科学省告示第46号
- ^ 平成24年度 教育委員会会議録(「第8回定例教育委員会会議録 (PDF) 」)
- ^ 史跡追加指定の告示は平成26年3月18日文部科学省告示第37号および平成27年3月10日文部科学省告示第44号
- ^ 松本市:松本城外堀復元用地を買収へ 20年完成予定/長野[リンク切れ]『毎日新聞』2013年11月29日(地方版)
- ^ 『信州の遺跡』4、2014年2月21日発行 (PDF)
- ^ “長野 松本城の堀 復元を断念 基準値超える鉛検出”. 毎日新聞. (2018年7月1日) 2020年1月3日閲覧。
- ^ 松本城南・西外堀復元事業について/松本市
- ^ 松本市の都市計画(資料編)
- ^ イベント情報 | 国宝 松本城 国宝松本城公式ホームページ
- ^ a b c d 松浦雄介 (2019). “文化を資源化する社会” (PDF). 西日本社会学会年報 (No.17) 2022年10月9日閲覧。.
- ^ “9/16(金)~9/19(月・祝)3年ぶりに開催『クラフトビールフェスティバル in 松本』松本城公園に60種以上のCRAFT BEERとFOODが大集結!出店リスト公開中@松本市”. webKomachi (2022年9月13日). 2022年10月9日閲覧。
- ^ “松本城の別名「烏城」は誤り 松本市がホームページに記載”. 信毎ニュース (信濃毎日新聞). (2019年11月8日) 2021年9月14日閲覧。
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- ^ 信州社会科教育研究会 1983, p. 171.
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- ^ 小原稔 2020, p. 5.
- ^ 小原稔 2020, p. 5 - 7.
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- ^ 松本城検定クイズ 国宝松本城を世界遺産に (PDF) [リンク切れ]
- ^ 松本城検定クイズ 国宝松本城を世界遺産に (PDF)
- ^ 「松本城の枡形跡を広場に整備 松本市、城下町再生へ一歩」日本経済新聞(2011年5月20日)2022年8月13日閲覧
- ^ 「長野・松本城で堀しゅんせつ 悪臭対策、150年ぶり」日本経済新聞(2013年7月27日)2022年8月13日閲覧
- ^ 「国宝松本城を世界遺産に」推進実行委員会 事務局(2022年8月13日閲覧)
- ^ 松本の魅力 - 国宝松本城 - 世界遺産[リンク切れ]松本市公式ホームページ
- ^ 国宝松本城天守の耐震診断結果についてのお知らせ[リンク切れ]松本城管理事務所(2017年5月17日)
松本城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 06:01 UTC 版)
詳細は「松本城」を参照 長野県松本市 1593年(文禄2年)〜1594年(文禄3年)築城 - 1871年(明治4年)廃城 天守建造年:大天守は1615年(慶長20年)。乾小天守は1591年(天正19年) - 1592年(文禄元年)建造という説がある。 大名分類:譜代 石高:6万石 築城者:石川数正、石川康長 主な改修者:松平直政 代表紋章:「笹竜胆(ささりんどう)」 文化財指定:史跡、国宝5棟 その他指定:日本の歴史公園100選、日本100名城(29番)美しい日本の歴史的風土100選 層塔型5重6階の大天守と3重4階の乾小天守、2重の辰巳附櫓と月見櫓を付属させた複合連結式の天守で、「現存12天守」の中では唯一平城の天守である。破風が少なく、黒塗りの下見板がめぐらされているため、漆黒で簡素な外観であるが、複合連結式であるため見る角度によって異なる印象の意匠を見ることができる。
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