矢矧川の野盗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:02 UTC 版)
講談や『太閤記』『絵本太閤記』『真書太閤記』では、蜂須賀小六は野盗の親分であったとされているが、「墨俣一夜城」のために集められた夜討強盗の野武士集団の番頭の1人というのは、寛永3年(1626年)以後に刊行された小瀬甫庵の『太閤記』が秀吉の生い立ちを面白くするために作った話であり、蜂須賀家の子孫は長くその負のイメージに苦しんできた。 羽柴秀吉との出会いについても、浪人時代の秀吉と矢矧川の橋(矢作橋)で出会ったという逸話が特に有名で、浮世絵などにも描かれるなど広く信じられてきたが、渡辺世祐が侯爵蜂須賀家の依頼により『蜂須賀小六正勝』を執筆した際に、室町期のどの紀行文を見ても矢矧川には橋がなかったこと、渡し船が用いられていたこと、この逸話が虚伝であることを指摘し、その後、矢矧川に橋が架かったのは江戸時代中期の元禄年間(1688年-1704年)であり、天正年間(1573年-1593年)には渡し船で渡河していたことが立証された。 桑田忠親は「矢作橋の上で、盗賊の頭領の蜂須賀小六と出会う話は『絵本太閤記』の作り話」とし、小和田はさらに具体的に(橋での出会いは)寛政9年(1797年)に刊行され始めた同作由来の話であるとして、その著者の「竹内確斎の創作」であると言っている。
※この「矢矧川の野盗」の解説は、「蜂須賀正勝」の解説の一部です。
「矢矧川の野盗」を含む「蜂須賀正勝」の記事については、「蜂須賀正勝」の概要を参照ください。
- 矢矧川の野盗のページへのリンク