皇室仕え
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「レオニード・セドネフ」の記事における「皇室仕え」の解説
ツァールスコエ・セローで叔父のイヴァン・セドニョフ(ロシア語版)と同様にニコライ2世一家お抱えの料理人の助手として採用されたセドニョフ少年は歳の近いニコライ2世の息子のアレクセイ・ニコラエヴィチ皇太子と親しくなり、彼の遊び友達になった。 セドニョフ叔父甥はニコライ2世一家が移送されたシベリアのトボリスクとエカテリンブルクにあるイパチェフ館でも引き続き元皇帝一家の料理人の助手を務めた。 叔父イヴァンは1918年5月27日にアレクセイのお守り役であるナゴールヌイと一緒に尋問のためにイパチェフ館から連れ去られた。この日、館の周辺をぶらぶら歩いていたピエール・ジリヤール(英語版)(ニコライ2世の上の2人の子供の元フランス語家庭教師)は2人が赤軍兵士によって無蓋四輪馬車に乗せられるのを目撃している。それきり2人は二度と館に戻らなかった。 7月14日(日曜日)に司祭のストロジェフが許可を得て館に招かれ、ニコライ2世一家は聖体礼儀を行った。この若い神父はエフゲニー・ボトキン、アレクセイ・トルップらとともにセドニョフ少年が後方のアーチの影に立っていたのを確認している。 7月16日朝に館の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーはセドニョフ少年を館から通りの向かいの警護兵たちの宿舎に引っ越させた。少年が帰ってこないのをひどく心配した前皇后アレクサンドラ・フョードロヴナはその日の晩にどういう事情があるのか、ボトキンを聞きにやった。ユロフスキーはボトキンとタチアナ・ニコラエヴナに少年は叔父に会いに行くために館を去ったのだと説明したが、一家の抱いた不安は解消されなかった。実際にはイヴァンは6月上旬(他の情報源によると6月下旬:342、あるいは7月上旬 )に銃殺されていたため、面会は不可能であった。 アレクサンドラの人生最後の日記に彼の名前が登場する。 ・・・不意にリョーシカ(レオニードの愛称形)・セドニョフが叔父との面会に呼び出された。彼は消えた。もしこれが本当で、またもどって来た彼を見ることができたら、それこそ驚きだ。:321 — 1918年7月16日 警護兵のフィリップ・プロスクリャコフは前皇帝一家が失踪する前日にセドニョフ少年が彼のベッドで一緒に寝たので話をしたが、その時にユロフスキーに衣類を取り上げられてしまったと文句を言っていたと白軍の取調官に供述している。7月17日に起こったとされるエカテリンブルクの惨劇の定説を疑問視するアンソニー・サマーズ(英語版)とトム・マンゴールド(英語版)は著書『ロマノフ家の最期』の中で、この時点ではまだアレクセイの殺害は計画されておらず、彼に衣服を着せるために取り上げたのではないかと推測している。 また、警護兵のレテミンは7月17日の朝8時に宿舎に立ち寄るとそこにセドニョフ少年がいたので、どうしてここにいるのか?と聞くと、その場にいた警護兵のアレクサンドル・ストレコチンが片手を振って少年を脇の方に連れて行き、昨夜遅くに前皇帝夫妻(ニコライ2世、アレクサンドラ・フョードロヴナ)とその家族全員(オリガ・ニコラエヴナ、タチアナ・ニコラエヴナ、マリア・ニコラエヴナ、アナスタシア・ニコラエヴナ、アレクセイ・ニコラエヴィチ)、医師のエフゲニー・ボトキン、料理人のイヴァン・ハリトーノフ、召使いのアレクセイ・トルップ、侍女のアンナ・デミドヴァが殺害されたこと、彼自身もその現場に立ち会ったことを知らせてきたと白軍の取調官に供述している。 ユロフスキーの指令によって間一髪のところで命を救われることになったセドニョフ少年は7月20日にウラル(英語版)・ソビエト当局によって親戚が住むカルーガ県(ロシア語版)へ列車で送り出された:328。
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