疎開の実施と集団罹患
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 19:23 UTC 版)
「戦争マラリア」の記事における「疎開の実施と集団罹患」の解説
住民は、島を出る前にすべての家畜を屠殺することが命じられた。これはアメリカ人が乗り込んだ時に食用として利用されるのを避けるためとのことだった。当時、島には牛750頭、馬130頭、豚240頭、山羊550頭、鶏5000羽がいたとも言うが、住民が手を下さなかったものは、旅団本部から送られた実行部隊がすべて処理したと言う。殺した家畜は解体し、肉は塩漬けや簡易的な燻製にし、島外に搬送した。なお、その後にこの島に防衛のための軍が派遣されることはなかった。 4月初頭に、ほぼ同様のことが黒島でも行われた。 波照間島住民の疎開は3月末に始まった。当初、住民は避難船で西表の南東端にある大原に到着し、そこから南風見田まで約8kmを徒歩で移動したが、後には南風見田に船を接岸できる場所を見つけた。しかし、そこで漁船が空襲を受けたため、その後は西表島南西部の鹿川湾に荷物を下ろして徒歩で南風見田に向かうようになった。先遣隊が建設した掘っ建て小屋で生活が始まったが、ほどなくマラリア患者が発生した。梅雨が明けると罹病者が増え、死者が続出するようになった。疎開地には2棟の病棟が造られたが、薬や医療設備はなく、やがて患者は病棟に収容しきれなくなった。7月に入って暑さが増すと罹病者も急増し、死者は70人以上にのぼった。 ちなみに彼らを引き連れた酒井(山下軍曹)は当初は共にここで宿泊したが、その後由布島に移動している。
※この「疎開の実施と集団罹患」の解説は、「戦争マラリア」の解説の一部です。
「疎開の実施と集団罹患」を含む「戦争マラリア」の記事については、「戦争マラリア」の概要を参照ください。
- 疎開の実施と集団罹患のページへのリンク