留守政府の権力構造変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:03 UTC 版)
「明治六年政変」の記事における「留守政府の権力構造変化」の解説
明治6年(1873年)になると、大蔵省とその他官庁の軋轢は、予算を巡ってますます強くなった。あまりの混乱に1月19日には木戸・大久保に対して早期帰国の命令が下った。4月、井上は正院を改革して大蔵省の権力を強めようともくろんだが、4月19日に新たな参議となったのは司法卿江藤新平・文部卿大木喬任・左院議長後藤象二郎という反大蔵省の人物ばかりであり、井上は参議となれなかっただけでなく、各省の権限が正院に移されたことで、大蔵省の権力はかえって弱まった。これをうけて井上と井上の腹心渋沢栄一は大蔵省を辞任し、また従来木戸派であった大隈重信が留守政府に接近し、また陸軍で木戸派を代表していた山縣有朋が一時失脚したことで、木戸派が中央政界に与える影響力は著しく減退した。 しかし留守政府派といっても反大蔵省以外の結束理由があったわけではなく、また西郷隆盛も病気がちで青山の別荘に籠もりきりで、各参議はそれぞれ勝手な行動を行う状況であった。大久保は5月29日に帰国したが、留守政府に不満を持っていたため意図的に復帰せず、岩倉の帰国まで様子見をするため国内の視察旅行に出かけている。
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