町野家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:55 UTC 版)
会津松平家家臣である町野家は、鎌倉幕府の問注所執事三善康信に発し、室町幕府の評定衆を経て江州日野の町野郷の荘園を領地として存続し、室町時代末期に至り六角氏佐々木家に仕えた町野備前守經春を中興の祖としている。經春より三代目秀長の次男町野繁仍(幸仍ともいう)は蒲生氏郷の重臣で2万8000石を食んだ白河城主であり、「氏郷記」などにその名が見える。その子町野幸和は旗本となり、徳川家光の側室・自証院の養父となった。繁仍の子孫は幕臣として存続したが数代で断絶した。これは続群書類集完成会の「断家譜」巻の十九「町野氏」の項に明らかである。前出の秀長の長男石見守秀俊が町野家を存続させ、寛永13年、秀俊から三代目伊左衛門重成の代に保科正之に召抱えられ、幕末には300石を食んでいた。武馬の父町野主水重安は經春から14代目、武馬は15代目の当主である。なお山鹿素行は蒲生時代の町野家邸内で出生した。
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