申命記改革(ヨシヤ改革)に対して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 05:47 UTC 版)
「エレミヤ書」の記事における「申命記改革(ヨシヤ改革)に対して」の解説
『列王記』下22-23章では、ヨシヤ王の第18年(紀元前622年)にエルサレム神殿で、大祭司ヒルキヤにより「律法の書」が発見されたことが報告されている。この書は、現在の『申命記』の主要部分であると考えられており、『原申命記』(Urdeuteronomium)と呼ばれる。この書の内容に従い、ヨシヤ王の時代にエルサレム以外の聖所が廃止された(祭儀集中)。 11章で繰り返される「契約の言葉」とは、『原申命記』のことであると考えられる。3節でこの「契約の言葉」の違反者に対して呪いが語られることから明らかなように、エレミヤは基本的にこの改革に好意的であったが、この改革が伴った祭儀集中は地方聖所で活動していたレビ人祭司たちの地位を脅かすものであったため、アナトトの自分の一族から命を狙われたことが報告されている。この時期のエレミヤの苦悩は、「告白録」と呼ばれる部分に書かれている。 異教的な祭儀や社会的不正に対する批判を、エレミヤは申命記改革と共有していたが、申命記改革(ヨシヤ改革)の問題性を彼は指摘してもいる。紀元前609年に、申命記改革の推進者であったヨシヤ王は、エジプト王ネコによってメギド(エルサレムのはるか北方、カルメル山の南方)で殺害された。これに引き続き、ヨシヤの子エホアハズが後継者として民によって選ばれたが、エジプト王ネコは彼を退位させ、代わりにヨヤキム(エホヤキム)を王位につけた(紀元前608年)。このヨヤキム王の第1年に語られたとされる説教が26章に収録されている。8章では、「主の律法」を保持していることを誇る預言者たちや祭司たちに対して審判が語られている。これは、当時の申命記改革の推進者に対する批判であると考えられる。書記たちが律法を捏造し、その律法に基づいて、破滅が迫っている状況で偽りの平和を語ったことが批判されている。 申命記改革は、エルサレム神殿の地位を必然的に高めることになったが、エレミヤは、エルサレムの選びを絶対的なものとは見なさなかった。26章では、民が罪を悔い改めなければ、かつて破壊されたシロのように、エルサレムも廃墟になると預言される。最初、この預言を聞いた者たちはエレミヤを死刑にしようとしたが、数人の長老たちがエルサレムの荒廃を預言した預言者ミカ(『ミカ書』は彼に帰されている)を引き合いに出してエレミヤを弁護した。 ただし、エルサレムに対する審判を語ることが命がけだったという状況に変わりはない。26章20節以下では、エレミヤと同様の審判預言を語っていたウリヤと呼ばれる預言者が、逃亡先のエジプトから連れ戻されて王によって殺されたことが報告されている。26章最終節の24節によれば、エレミヤはシャファンの子アヒカムによって庇護されていたために殺されずにすんだ。シャファンはヨシヤ王時代の改革推進者の一人であった。 エレミヤ書が申命記史家的な編集を後に受けたことはほぼ確実であると考えられているが、編集者たちは申命記改革に対するエレミヤの批判を削除しはしなかった。
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