琉球侵攻とその波紋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「琉球侵攻とその波紋」の解説
琉球侵攻の成功について報告を受けた家康は、薩摩の働きを賞賛するとともに薩摩藩の琉球支配を認めたが、その一方で琉球王国を存続させることも命じられた。 侵攻後の1609年5月、尚寧の日本連行後に福州に送る文書を作成している。文章内で尚寧は琉球侵攻の経過を説明し、自らがまもなく日本に連行される予定であることと、1609年に派遣予定であった進貢船の派遣は延期する旨などを記していた。この文章はすぐに明に送られることは無く、9月に尚寧は鹿児島で明との冊封関係の継続を指示された。1610年1月、薩摩側からの冊封関係の継続指示を受けて琉球側は新たに文書を作成し、1610年に前年延期した進貢を実施するとともに、1609年5月の文章と1610年1月の文章が併せて明側に渡された。この1610年の進貢時に明は琉球侵攻の事実を把握し、1610年12月、万暦帝は琉球侵攻後にも関わらず進貢の遅れを心配する琉球を慰めるとともに、尚寧が帰国した後も明に対して恭順を守れば皇帝の意思に背くことは無く、琉球と日本の事情について改めて報告するよう命じ、その報告に基づいて今後の対応を決定するとした。琉球情勢に不安を抱き、日本に対する警戒心を覗かせてはいるが、1610年の進貢に対する明の態度は比較的平穏なものであった。 幕府と薩摩藩は、琉球が改めて日明貿易の再開の仲介役となることを期待していた。1611年10月、尚寧は琉球に帰国するが、その直後、島津家久は尚寧に、海上の島での出会貿易、琉球での出会貿易、室町時代と同様の勘合貿易のいずれかを明に選択させ、交易を拒否する場合には明の沿岸部に攻撃を行うとし、この要求を明側に至急伝えるよう指示した。
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