独立派へ
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1994年12月、第一次チェチェン戦争勃発後、バサエフは、独立派のジョハル・ドゥダエフの指揮下に加わり各地を転戦した。バサエフはグロズヌイ守備隊指揮官に任命される。1995年6月、ブジョンノフスク病院占拠事件の首謀者として、和平交渉を拒否していたロシア連邦政府の譲歩を引き出すことに成功し、民族の英雄視されるようになる。しかし、ロシア側の報復も激しく、バサエフの生地ヴェデノはロシア空軍の空爆に逢い、彼の家族11人も犠牲となった。1996年末、第一次チェチェン戦争がハサヴユルト合意によって一応の終結を見、1997年1月にチェチェン大統領選挙に立候補したが、穏健独立派のアスラン・マスハドフに敗れ、落選する。マスハドフ政権では、閣僚や国軍副司令官を歴任するが、次第にマスハドフとの間に路線対立を起こすようになる。また、この間に、ボリス・ベレゾフスキーから資金援助を受けている。 1999年、アラブ人の野戦部隊司令官アミール・ハッターブと共同して、隣国ダゲスタンに侵入し、第二次チェチェン戦争の原因を作った。この他、2002年のモスクワ劇場占拠事件の背後にもバサエフがいたとされる。2004年8月24日のモスクワバス停爆破事件、同日起こった二機の旅客機自爆撃墜、8月31日のモスクワ・リガ駅自爆事件、そして9月1日から9月3日にかけて起きた北オセチア・ベスラン学校占拠事件など、ロシア国内での主要なテロ事件に関して、自らのウェブサイトで犯行声明を出した。 2005年3月9日、アスラン・マスハドフがロシア連邦保安庁(FSB)特殊部隊によって殺害されたことを受けて、バサエフは3月10日「聖戦継続」を呼び掛ける声明を発表した。バサエフはウェブサイトに掲載した声明で「マスハドフのために戦った者は休むがよい。アラーのために戦う者の聖戦は続く」と述べた。マスハドフ殺害に対する報復を名目に新たなテロに踏み切る可能性を示唆した。また、マスハドフの後継者には、チェチェン独立派のアブドゥル=ハリーム・サドゥラエフ宗教裁判所長官が暫定的に就任するべきだと主張した。バサエフは、無名の存在に近いアブドゥル=ハリーム長官を前面に立てて、チェチェン独立派内で実質的権力を掌握しようという思惑があったと思われる。 2006年6月27日、アブドゥル=ハリームの後を継いだドク・ウマロフ大統領により、副大統領に任命。
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