爵位一代放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 16:08 UTC 版)
世襲貴族を一代限りで放棄する場合、放棄声明書を大法官に提出する必要があるが、提出には期限が定められている(第1条1項)。その期限とは爵位継承から1年以内で、継承時点で21歳未満の場合は22歳になるまで、1963年貴族法の施行時点ですでに爵位を継承した場合は施行から1年以内である(第1条2項、3項)。ただし、爵位継承時点で庶民院議員である場合、期限は1か月に短縮され、さらに放棄声明書を提出する前は庶民院議員として会議に出席したり投票したりすることは禁止される(第2条1項)。世襲貴族が1963年貴族法の施行以降に貴族院への議会召集令状を申請した場合、爵位放棄声明書は提出できなくなるが(第1条2項。また、施行以前に議会召集令状を申請した場合は提出できる(第1条3項))、この条項は1999年貴族院法で廃止された。なお、1999年貴族院法の施行以降は世襲貴族が貴族院への議会召集令状の申請権を自動的に有することはなくなった。世襲貴族を一代限りで放棄する場合、その爵位の称号、権利、特権は全て失われ、結婚している場合はその妻も同様に(貴族夫人などの)称号、権利、特権を失う(第3条1項)。また、世襲貴族を一代限りで放棄した人物を再び世襲貴族に叙することはできないが(第3条2項)、(世襲貴族ではないため)一代貴族への叙爵は可能である。一代放棄された爵位は放棄した人物の死去まで所持者が存在しなくなり(第3条1項)、放棄した人物が死去すると爵位は普段通りに継承される。 すでに爵位を継承した人物でも1963年貴族法の施行から1年以内に爵位を放棄できるという規定はすぐにその重要性を示した。というのも、貴族法の施行から数か月後の1963年10月に首相ハロルド・マクミランが辞任、その後任をめぐって2人の世襲貴族を意欲を示したが、この時点の慣習(英語版)では首相は庶民院議員でなければならなかった。そのため、第2代ヘイルシャム子爵クィンティン・ホッグ(1950年に爵位継承)と第14代ヒューム伯爵アレック・ダグラス=ヒューム(1951年に爵位継承)は「施行から1年以内」という規定に基づき爵位を放棄した。その後、ダグラス=ヒュームは首相に就任、また2人とも後に一代貴族として貴族院に戻った。 1999年に世襲貴族の自動的に貴族院議員に就任できる権利が廃止され、それに伴い庶民院議員への就任と庶民院での投票に対する制限も撤廃された。そのため、庶民院議員への就任を理由とする爵位放棄はその必要性がなくなった。2001年、第3代サーソー子爵ジョン・シンクレア(英語版)はイギリス史上はじめて庶民院議員に就任したイギリスの世襲貴族になった(それまではアイルランド貴族かスコットランド貴族、または爵位一代放棄をした例しかなかった)。同年、クィンティン・ホッグの息子で庶民院議員のダグラス・ホッグ(英語版)は父が一代放棄した爵位を継承したが、それを一代放棄せずに庶民院議員を務めることができた。2004年にロジアン侯爵の爵位を継承したマイケル・アンクラム(英語版)も同様だった。その後、ホッグとアンクラムは一代貴族に叙されて貴族院に移り、サーソー子爵は2015年イギリス総選挙で落選した後世襲貴族の互選で貴族院議員に当選した。このように、爵位一代放棄が主な目的を失ったため、1999年以降の爵位一代放棄は2002年にクリストファー・シルキンがシルキン男爵を一代放棄したという1例しかなかった。 爵位一代放棄に関する規定はイングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、連合王国貴族にのみ適用され(第1条1項)、アイルランド貴族の一代放棄に関する規定はなかった。これはアイルランドの大半が1922年に独立し、アイルランド貴族代表議員が1961年までに全員死去したことにより、アイルランド貴族の貴族代表議員選出の権利も消滅したとされたためだった。
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