深谷上杉家
深谷上杉家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 12:33 UTC 版)
「深谷上杉家」も参照 山内上杉家の上杉憲顕の実子である上杉憲英が「庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)」を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。 深谷上杉家7代当主の上杉憲盛は、永禄12年(1569年)の越相同盟の締結によって深谷城が上杉氏の勢力下に入ると謙信に属す。憲盛の嫡男・氏憲は、父の死後は後北条氏に付き、天正6年(1578年)には北条氏政の養女を正室に迎え、氏政の猶子となる。小田原征伐で後北条氏が敗れた後は、重臣の秋元長朝らが深谷城を開城して豊臣軍に降伏、氏憲は上杉景勝の所領である信濃国更級郡(現・長野市)にて隠居した。氏憲の嫡男・深谷憲俊は景勝から仕官の誘いがあったとも云われるが、1617年に播磨平福藩主の池田輝興に仕えた。 憲盛の次男・吉次の子孫は、徳川家に出仕して500石の旗本となり、上杉盛房は、天保8年(1837年)に70歳で勘定奉行、弘化元年(1844年)に77歳で大目付(役高3000石)に昇進して、安政元年(1854年)に87歳になるまで勤めた。
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