浮世絵又兵衛と興宗寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/01 05:18 UTC 版)
「興宗寺 (福井市)」の記事における「浮世絵又兵衛と興宗寺」の解説
浮世絵又兵衛とよばれる岩佐又兵衛は、織田信長に仕えた荒木村重の子であった。しかし、村重は信長に反逆を企て失敗したため、荒木一族はことごとく殺害された。そのなかで幼かった又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に身を寄せていた。又兵衛40歳の頃、本願寺で執事をしていた興宗寺第十世心願が又兵衛の画才に目をとめ、福井藩の絵師として推挙した(そのころ興宗寺は福井藩越前松平家と何らかの深い関わりがあったと思われる)。そのため又兵衛は妻子と共に越前に移り住み20年余りを福井で過ごした。60歳になると幕府より招請を受け、妻子を残し江戸に上って活躍した。73歳で江戸で没したが、遺言により遺骨は興宗寺に納骨され、興宗寺が岩佐家の手次寺となった。二代目勝重、三代目陽雲も興宗寺に納骨されている。 岩佐家の墓は興宗寺境内地(現在の宝永小学校)にあった。福井地震後、寺基が移転した後も、小学校地内に残された。昭和62年(1987年)に校舎改築に際して、現在の興宗寺境内地に移されている。現在は福井市による解説板が設置されており、元の墓位置にも碑が建っている。 墓の移転に際して、立ち会った興宗寺住職が墓の中から「荒木」と書かれた越前焼の壺を発見している。荒木は織田信長に反逆した父の姓である。そして、岩佐というのは母方の姓とも乳母の姓ともいわれている。
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