江戸時代の離婚制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 09:14 UTC 版)
離縁状を夫や妻(または妻の父兄)に交付することで離婚は成立する。妻が離婚を望んでいるにもかかわらず離縁状を書かないのは夫の恥とされ、また、夫が離縁状を書いても親類や媒酌人(仲人)が預かることも多かった。さらに、夫からの勝手な一方的離婚の場合には相当量の金銭を妻に持たせることもあった。このように、必ずしも夫が好き勝手に易々と離婚できる制度ではなかった。 公事方御定書の規定によれば、離別状を受領せずに再婚した妻は髪を剃って親元へ帰され、また、離別状を交付せずに再婚した夫は所払(ところばらい。追放。)の刑に処された。 武家においては仕えている主君(江戸幕府・藩など)に双方の家から離縁届を提出すれば離婚が成立する(従って、離縁状は不要だったとするのが通説である)。しかし、浪人となって離縁届を出す主君がいない場合には離縁状が出されていた(大石良雄・りくの例など)。しかし、尾張藩の朝日文左衛門が離縁した際には夫(朝日)の父から妻の父に対して離縁状が手渡され、朝日自身も仲人にその旨を報告の書状を送るなど、江戸時代の武士の日記には離縁状の交付に関する記述や実際の離縁状の写しなどを記したものもあるため、慣習として存在していたとする説の根拠となっている。また、自分の死後に妻が自分の家(嫁ぎ先)に生涯留まり続けざるを得なくなるのを避けるために遺言などの形で離縁に言及する場合があった。これを末期離婚という。 武家の離婚の場合、婚姻自体が家と家の関係を構築するためのものであったため、対応を間違えると家同士の対立に発展することにもなった(仙台藩と岡山藩の半世紀近い関係断絶に発展した所謂「元文離婚事件」など)。特に同じ主君に仕える家同士の揉め事は主家としても不都合であった。そのため、藩の中には離縁届と共に両家より「義絶願」を提出させて一時的に両家の義絶(絶交)を認め、ほとぼりが冷めた頃に両家話し合いの上で「和順願」を出させて手打ちを図った。
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