民国での活動
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袁世凱が臨時大総統となった後の同年4月、徐紹楨は北京政府中央において参謀総長に任命された。しかし徐は袁を嫌い、実際には就任しなかった。1914年(民国3年)6月、参政院参政となる。翌年6月、冊封外蒙古博克多哲布尊丹巴呼図克図専使に任ぜられ、同年に殖辺銀行を創業した。1917年(民国6年)、徐紹楨は孫文の護法運動に参加する。翌年3月、軍政府衛戍総司令代理に任ぜられ、さらに陸軍部練兵処督弁も兼任した。 1920年(民国9年)6月、徐紹楨は両広各路招討軍総司令に任命され、翌年5月には総統府参軍長に任ぜられている。1923年(民国12年)2月、広東省省長に任ぜられ、同年5月、大本営内政部部長に転じた。翌年1月、病を理由に内政部長を辞任する。1925年(民国14年)3月に孫文が死去すると、徐は北京に赴いて葬儀を手伝った。 これ以後、徐紹楨は事実上政界から引退し、主に上海で著述につとめた。国民政府時代に、一時的ながら国民政府委員にも任ぜられている。1936年(民国25年)9月13日、上海にて病没。享年76(満75歳)。
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民国での活動
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同年に武昌起義が発生する。孫道仁は元々は革命派との関連がなかったものの、次第に情勢に迫られ、11月5日に中国同盟会に加入した。そして福建新軍を率いて8日に蜂起し、閩浙総督を倒して福建を革命派の下に置いた。同月に臨時政府が設立されると、孫が福建都督に推される。1912年(民国元年)、袁世凱から福建都督に正式に任命され、陸軍中将の位も授与された。 1913年(民国2年)7月に二次革命(第二革命)が勃発すると、革命派の許崇智らの突き上げもあって、7月19日に福建省の独立を宣言した。しかし、これは孫道仁の本意ではなく、革命派への積極的な支援は行わなかった。結局、8月9日に独立を取り消したが、福建都督の地位は廃止される。まもなく北洋軍の李厚基が福建護軍使として福建の軍政を掌握した。孫は北京へ召還され、事実上、孫の福建での軍事・政務の経歴は終了した。1917年(民国6年)、黎元洪の下で総統府高等顧問に任命された。1923年(民国12年)に引退し、廈門市で老後を過ごした。 1932年(民国21年)死去。享年66(満65歳)。
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